ランドマーク探しⅢ

出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録しました。これからは自分の足で散策し、記録していきます。

青松寺(港区愛宕)江戸名所図会めぐり

2017年05月22日 23時02分55秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーの下の事業所を訪れたので、途中江戸名所図会に掲載されている青松寺を散策してみました。山門です。山門に飾られています。本堂です。

江戸名所図会より

万年山上青松を荷ふ/盤結高く分けて坐して竜に似たり/知りんぬこれ珠を抱きて眠りさらに穏やかなるを/ 彩雲飛び送る下堂の鐘 南郭

★ランドマーク青松寺:宗派 曹洞宗 宗祖道元禅師  本山 永平寺(福井県) 総持寺(神奈川県)

山号 萬年山(ばんねんざん)寺号 青松寺(せいしょうじ)   ご本尊 釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)

青松寺は、太田道灌公の命により、雲岡が文明8年(1476)麹町貝塚(今の国立劇場・最高裁判所の辺り)に開創したといいます。当時は「江戸貝塚青松寺」と呼ばれていたようです。その後、慶長五年(1600年)、徳川家康公が江戸城の外堀をつくる際に、愛宕山南に続く丘陵「含海山」と呼ばれる現在の地へと移っています。

江戸時代には、曹洞宗江戸三ヶ寺(青松寺、泉岳寺、総泉寺)の一つとして触頭を勤めていたとのことです。大正十二年(1923年)の関東大震災では堂塔は烏有に帰してしましました。歴代住職と檀信徒の青松寺復興に寄せる思いはあつく、今日の時節到来を迎えて再開発を行い、往時の伽藍を再建し、願いが叶えられたとのことです。(青松寺HP等より)

中雀門

観音聖堂

禅堂

鐘楼堂

建物は関東大震災ですべて失われたそうなので、この燈籠は昔からのもののようです。地蔵尊も古そうですが

お寺とビルが一緒になって、もともとの地盤はもうないようですが、こんなものもありました。

裏口から入ったのでビルに面しているところに庭や稲荷が祀ってあります。

禅堂の横には

山の上には法輪大観音があるようです。

山の登り口には

消災地蔵尊

 

墓の中には入りませんでしたが、奴地蔵(槍持勘助墓)(港区登録文化財)があるようです。山門の右下に観音像がありました。

東京タワーに行く坂道の道端にアジサイが咲いていました。

ガクアジサイ

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真夏日・公園と花とスカイツリー

2017年05月21日 23時48分53秒 | 今日の写真から

各地で5月の最高気温を記録する中で、テニスの応援やら公園散策をしてみました。テニスは墨田区の大会二日目です。大横川を埋立してできたコートに行ってきました。

大横川と北十間川と交差するところに東京スカイツリーが立っています。コートは江東橋と憧木橋の間になります。

★ランドマーク撞木橋跡:ここに架かっていた撞木橋は万治2年(1659)当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋1丁目より、同緑4丁目の大横川に架けられました 最初は長さ10間、幅2間の木橋でしたが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年(1330)7月には、鋼橋(トラス)になりました。

  この橋は、大横川親水河川整備事業により、その役目を終えて昭和62年(1987)10月に撤去されました。 なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられましたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。

  平成11年(1999)2月

ここには時を知らせる鐘があったようです。時の鐘跡

埋め立てた後に植えられたアジサイが開花の気配です。白いドクダミの花も咲いています。蔓の花です。

それから猿江公園です。公園は子どもまつりで賑わっているので歩けそうもないので、前日の写真です。ツツジのあとは皐月でしょうか。いかもの暑そうです。

ブラシノキもだいぶ咲いてきました。

ブラシというより大きな芋虫という感じですが。

可憐なバラの花です。花壇には黄色い花やピンクの花

ポプラも葉をいっぱいつけてツリーが見えにくくなっています。

ミニ木倉は渡り鳥が去ってしまって穏やかでした。

日暮れに公園から東京スカイツリーの下まで行ってみました。

ここからいつものビューポイントの橋へ

色が変わる瞬間に出合いました。いったんライトが消えます。オレンジ色になりました。北十間川の水面はさざなみで影が揺れています。

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光明寺・亀戸

2017年05月20日 23時32分04秒 | 社寺仏閣

自宅近くにある光明寺です。2015年5月5日に書いたものに2017年5月20日の写真を加えました。歌川豊国の墓がありました。

★ランドマーク光明寺:天台宗の光明寺は、亀命山遍照院と号し、弘治元年(1555)に僧慈宏が創建したと伝えられています。

この周辺には

広重に描かれた臥龍梅のあった梅屋敷、亀戸天満宮をはじめ、江戸名所図会にでてくるお寺さんなどが集まっています。今住んでいる自宅の団地は銭座跡の南にあります。

本堂

★ランドマーク歌川豊国の墓:二世歌川豊国は、天明6年(1786年)、江戸本所の竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれ、生家は亀田屋といい、父は庄兵衛といった。15、6歳で豊国の門下に入り、歌川を称し、後に国貞と名乗った。文化4年(1807年)22歳頃から美人画を描き始め、文政8年(1825年)には艶本の挿絵も始めた。文化11年から文化12年頃の「大当狂言之内」全9枚シリーズを始めとする役者絵は師をも越えた作品と評価された。とのことです。

二世豊国(国貞)の代表作「吉原時計亥の刻」です。

歌川国貞 画 『八重織の霊』

墓はこちらです。歌川豊国(国貞)墓(江東区登録文化財)

右側の歌川と書かれている墓石の中ごろに豊国院貞匠画遷信士となっているのが豊国の法名です。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用しており、天保14年(1843年)まで使用していました。

竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれたことに由来しているようです。五の橋の下にというのが設置してあります。詳しくはこちらアップしてあります。

本堂の前にある水子地蔵尊

入り口の所には地蔵堂と松植紀年之碑 大正5年在銘(江東区登録文化財)こちらは3月10日の戦災受難者の碑です戦災受難者慰霊地蔵尊庚申塔 延宝4年在銘(江東区登録文化財)

水盤文化10年在銘(江東区登録文化財)1827年になります。

延命地蔵尊碑文久3年在銘(江東区登録文化財)

石造燈籠 溝口宣広奉納寛永寺旧蔵(江東区登録文化財)

延宝9年(1681年)となっています

裏の墓の隣の林は伊藤左千夫の墓のある普門院です。2年前に訪れてブログに載せました。

墓の中から東京スカイツリーが望めます。

この燈籠も古いようですが。

下にはニッコウキスゲです花の中に蝶がいます。

墓の奥に地蔵尊がありました。延宝8年と書かれています。

ちなみに五渡亭のある場所です。五百羅漢寺に行くのにここを渡って行ったようです。今は五の橋がかかっています。明治通りになります。古地図は文久2年(1862年)版です。

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平塚神社(平塚明神社、江戸名所図会めぐ)

2017年05月17日 13時03分22秒 | 江戸名所図会めぐり

旧古河庭園のバラ園に行く途中に平塚神社があります。就職した当時は配属先が台東区だったので、東京都区部の北部ということで、北区などとも交流があり、時々訪れていましたが、平塚神社には寄ったことがありませんでした。

あれから45年、退職して江戸名所図会めぐりをしていて、平塚神社も描かれているので、散策してみました。江戸名所図会より

キャプション この辺、すべて平塚城跡なり。

★ランドマーク平塚神社:平塚神社(旧平塚明神社)の略縁起
平塚神社の創立は平安後期 元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲目であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川義光の近習となり立身出生を果たした。その後、義光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の行基はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。

こちらの図会は八幡太郎義家兄弟

キャプション

奥州征伐凱陣のころ、武蔵国に入りたまひ、豊島某が住みし平塚の城に逗留ありて、あるじに鎧一領を賜りけるを、後、塚に築き収めて、 城の鎮守とし、平塚三所明神といつきまつりしも、実に武功のしからしむるゆゑなるべし。

平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義光(賀茂次郎)、義綱(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けた。義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とよばれ、これが当地郷の地名のおこりとされる。。

拝殿の後ろの山が甲冑塚のようです。

JR上中里駅のホームから見ています。

広い境内が残っています。

石鳥居には文化10年と彫られています。

文花10年は1827年で(みずのととり 癸酉)だそうです。文花10 癸酉年と書かれているようです。狛犬手水場神楽殿

菅原神社

石室神社

 

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旧古河庭園バラ園(2017年5月16日)

2017年05月16日 23時39分57秒 | 季節の花

北区滝野川にある旧古河庭園のバラ園を見てきました。私と同じようにリハビリで頑張ってる友人が近くにバラ園があるのだけれど、そこまで行くのが大変だと言っていたの思い出し決断しました。調べて見ると45年ほど前には近くの施設に時々お邪魔していました。当時は上中里駅からの登り道もほとんど気にかけていませんでしたが、今の自分にはなかなかきつい坂になっていました。坂の途中に江戸名手図会に出てくる平塚神社があったのでこちらは別にアップします。

★ランドマーク旧古河庭園:武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。
この庭園はもと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でしたが、次男が古河家の養子になった時、古河家の所有となりました。尚、この当時の建物は現存していません。
現在の洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア コンドル博士(1852~1920)です。博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をしました。
日本庭園の作庭者は、京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860~1933)の手によるものであり、彼は当園以外にも、山県有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭しました。現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない重要な事例であるとして、平成18年1月26日に文化財保護法により国の名勝 指定を受けました。

洋風庭園にバラ園には約100種199株ものバラがあるということです。

都立公園なので、猿江恩賜公園にあった赤い花はブラシノキでした。入り口のすぐ左手からバラ園が続いていますスターリング・シルバービッグ・ドリーム朱玉

ランドラニューアベマリアブラックゴールド紫雲です。

フレンチレース

ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ

フロージン’82

恋心

恋心

ミスターリンカーン

万葉

朝雲

初恋です。

クリスチャン・ディオール琴音

ツツジのころがよさそうです。日本庭園心字池が見えます。階段が続くのであきらめましたが、紅葉の時は是非降りて見ようと思います。

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