バスから降りると、駅ロータリーのベンチに座って待つこともなかった。送迎用レーンに、パールホワイトのコンパクトカーがすでに到着していたからだ。トイレに行きたいと一瞬だけ思ったが、大ちゃんを待たせつづけるのは悪いと思い、コンパクトカーに走りよった。
ダコン、とドアのロックが解除される音。そう、解除されてからでないとドアに触れてはいけない約束だった。助手席のドアの下の縁のほうに数センチの傷をつけてしまったのは前々回のデートのとき。手前にある縁石の高さを気にしないまま、思い切りドアを開けてガリっとやってしまったのだ。大ちゃんは怒らなかったが、それからの静かな用心深さを目の当たりにしてみると、逆に根でも持っているのではないかと恐縮してしまうほどだった。
「ごめん、待った?」
「ううん、五分くらい」
ぼさぼさ髪の大ちゃんは、八部咲きの花のようなゆるい笑顔で迎えてくれた。董子はバッグをいったん大ちゃんにあずけ、シートにすべりこんでていねいにドアを閉めた。ありがとう、とバッグを受けとると、大ちゃんの地味なファッションがすぐに気になった。ベルトの締めつけが心配になる、袖なしの白いダウンベストのようなもの。その下には青のチェックのシャツ、パンツはグレーの「ズボン」だ。
「ねえねえ。その白いベスト、どこで売ってたの?」
「ん? あ、これは近所の釣り用具店で売っていたんだ。安かったから」
「釣り用なの? ふつう、普段着にしないでしょう。救命胴衣みたいだよ」
「あ、そうか。救命胴衣だったのかも」
大ちゃんは何かを発見したような顔で董子を見た。こんなとき、大ちゃんはとぼけているわけではない。冗談を言っているつもりでもないみたい。真に受けているのだ。大ちゃんのまともなジョークは聞いたことがなく、今みたいに不可解な空気を勝手に導き、それが二人の笑いの種になる。本人はなぜ笑われているのか、よく分かっていないと思う。
「ま、いいか。じゃあ出発。シートベルト締めてね」
大ちゃんは横に長い楕円形の目で董子の胸元をチラと見ると、パーキングレバーを下ろし、安全を周到に確認しながら車を出した。
大ちゃんの視線は時々ヘンだ。互いの顔を見合わせるべきところで、董子の胸や太もも、唇なんかも見てくる。決していやらしい感じではない。だけど鈍感な大ちゃんのことだ。つい、どんな女性に対しても同様のことをしているのでは、と考えてしまう。
大ちゃんにその視線の真意をたずねたところで、明確な答えは返ってきそうにもない。物事には執拗にとらわれず、場の雰囲気にまかせて呼吸しているみたいだもん。エッチだって、いつも自分からは誘ってこないもんね。
董子のそんな邪推を知るよしもない大ちゃんは、スコン、スコンとスムーズにギアチェンジをしていく。その動作だけは、いつも男らしく見える。大ちゃんには不思議がつきまとうのだ。
ビルの影が延々と落ちている細い道路。対向する車とすれちがいながら、ゆっくり下っていく。信号機と一緒になった踏み切りを越えると、左右に伸びる両側一車線の国道が見えてきた。県北方面を指し示す青い看板を確認してから右折すると、待っていましたとばかりに、暖かい陽射しが車内に入ってきた。
大ちゃんの車に乗ると、ついついあくびが出てしまう。ドライバーはほとんど無言で安全運転だし、BGMもラジオだし、とにかくのんびりしているのだ。今、足元のスピーカーから流れているのはノイズまじりのAMラジオ。車が加速するたびにキーンという音を発している。ニュースを読むアナウンサーは、プロ野球選手の契約更改について話しているようだった。
とりあえず、幹線道路の流れは順調そうではある。あ、トイレ行きたいんだった。大ちゃんに言っておかなくちゃいけない。
「そうそう。大ちゃん内緒って言ってたけど、どこ行くの?」
「ん? ちょっと山の方」
「山ぁ? 何て山?」
「ん? 別に名前はないけど。里山を見にいこうかなって思って」
「そこで何するの?」
「え、だから、里山の生態系とか景色を堪能するの」
真顔の大ちゃんには悪いが、一瞬でうええ、つまらなさそう、と思ってしまった。山に行くのなら、素敵な展望台のあるレストランで食事くらいしたいのに。
大ちゃんがそんなおしゃれな場所を知っているとは思えないけれど、内緒にしていたわりには内容が寂しすぎる。そもそも何が一番嫌って、ワンゲル部でもできそうなことをデートでしてしまうことだった。
董子は気持ちを表情になるべく出さずに、所要時間を聞いてみた。
「その里山までどれくらいかかるの?」
「今からだと、一時間くらいかな」
「そんなに? 夜ご飯はどうするの?」
「陽が落ちたら、また街に戻って食べに行こうと思っているんだけど」
「そう……」
とてもじゃないけど、落ち着いてトイレを我慢できる行程ではない。大ちゃんがどうしたの? と言いたげな顔で二度三度と董子の方を見た。さすがに山には行きたくないとは言いだせない。せっかく、珍しくも大ちゃんが自発的に誘ってくれたのだし。ただ、つまらなそうな結末が目に浮かぶようなのが心苦しいのだ。
考える素振りを見せても、膀胱の圧迫感はじわじわと増してくる。車が赤信号に引っかかるのを待って、大ちゃんに言った。
「ごめん、大ちゃん。トイレ行きたいんだ。どこか寄ってくれる?」
「あ、いいよ。もう少ししたら大きいスーパーがあるから。そこでいい?」
「うん。ごめんね」
「で、とーこ。トイレは小さいほう?」
董子は大きいほう。なんて言うわけないじゃない。冗談っぽく聞くってことを知らない大ちゃんに、そのまま正直に答えることの方が恥ずかしい。大ちゃんの左肩をばすんとたたいて、ぷいと窓の外を見た。
大ちゃんにはちゃんと察してほしい。気づかいが下手なのは付き合う前から感じてはいたけど、その平然とした態度はただの鈍感では許されないこともある。言って分かってくれたらいいのだけれど、説き伏せる自信が董子にはない。
黄色に緑のラインが入っている電器屋さんの壁には、青い光のイルミネーションがきらきらとしている。もうそろそろクリスマスだね。どうしようか。なんて聞かれてみたい。
やはり、今の二人は中途半端な付き合いをしているのかもしれない。
大ちゃんは赤いバルーンが上がっている大型スーパーの駐車場に車を入れた。トイレを済ましたら、プリッツとペットボトルのホットのお茶を二本買って戻ってこよう。
東京……、円相場は一時八十六円台を突破し……。雑音混じりのラジオの音声がじんわり聞こえてきた。いつの間にか、うとうとしてしまっていたらしい。目覚めると、車は両端に茶色の落葉がどっさり積もっている狭い道をがたがたと登っていた。周りは完全に山で、葉を紅葉させた木々が前から後ろへと流れていく。くすんだ水色の空に見える黄色がかった太陽は、じりじりと下がっていくように見えた。
エアコン吹き出し口の上のデジタル時計は16:32と表示されていた。もうすぐ夕暮れ時だ。肩、手の先、それにスニーカーの中のつま先が異様に冷たくなっている。寒い。ヒーターを入れてほしい。隣の大ちゃんは相変わらず無言でハンドルを握っていた。白い救命胴衣はそんなに保温性が高いのだろうか。
「大ちゃん、ヒーター入れてほしい」
「あ、寒い? ちょっと待ってね」
大ちゃんはエアコンのスイッチを何やら操作してくれた。すぐに強風の冷気が首筋に向かって吹きだされ、やがてそれは暖かい風になった。ラジオの音声は、もはやよく聞こえない。
「もうそろそろ、かな」
大ちゃんの視線は私の横顔を通り越して、外の景色を気にかけていた。つられて、董子もその視線の行く先を追いかける。次第に背の高い木が少なくなり、やがて大きく視界が開けてきた。現れたのは琥珀色の大きな湖面、いや池だ。背の低い水草がぽつぽつと水面からのぞいている。小さな睡蓮の葉のようなものも無数に浮いていた。
「大ちゃん、これって池?」
「うん、ため池。ここに来るまでに田んぼがいっぱいあったでしょ。そこの用水としてここの水を使っているんじゃないかな」
田んぼなんて知らない。寝てたし。大ちゃんは董子が起きていたと思い込んでいるらしい。とりあえず、いびきはかいていなかったということ? 複雑な心境だ。
「橋が見えてきたね」
心なしか、大ちゃんの声は興奮しているように聞こえた。見れば、赤い鉄骨の橋が池の右端から左端へと渡されている。五十メートルくらいはあるだろう。橋上部のアーチからは数十本のワイヤーが下に向かって伸びていた。橋をつるして支えているのかもしれない。
橋を横目に十メートルほど進むと、目前に回転場が現れた。とりあえず、道はここで行き止まりらしい。大ちゃんは回転場で車をくるりと旋回させて停車した。
「とーこ、着いたよ。降りよっか」
「え? 今度はどこ行くの? 歩くの?」
「いや、ほら、あの橋の上に行くだけだから」
「橋の上?」
大ちゃんが何をしたいのか分からずじまいだったが、とりあえず降りなければならないらしい。あ、里山の生態系とか景色を堪能する、とかって言ってたっけ。それをあの橋の上で? 本気だったんだ。いや、それはそうなんだろうけど。
ここまで来て気乗りしない自分は罪な人間なのだろうか。
エンジンを切った大ちゃんは、車から降りると一人気持ちよさそうに伸びをしていた。董子も渋々ドアを開けて外に出たが、予想以上の寒さにぶるりと身をふるわせてしまった。回転場を取り囲むようにせり出した広葉樹が、大きな日陰を作っている。
目の前の大きな木の樹皮にはどろっとした液体が垂れ、そこに白いいも虫みたいなのがたかっていた。見ているだけで気持ちが悪くなる。じめっとした土の匂いも空気中に漂っていた。喧騒とは無縁の山の中にいるなんて、どこか現実離れしている感覚だった。
大ちゃんは車のバックドアを開けて、三脚のようなものを取りだしている。紐のついた大きなカメラも肩にかけていた。
「とーこ、荷物が心配だったら持って出てね」
「う、うん」
董子は体を固まらせたまま、しばらく動きたくないほどだった。でも、大ちゃんには従わざるをえない。デートはハッピーに過ごしてハッピーに終わりたい。両ひざの内側を密着させ、隙間を与えないようにして、車の中からバッグを引きずりだした。
うはー、寒い。寒すぎる。ジーンズでも下にタイツを履いてくれば良かった。もう、大ちゃんが情報を出し惜しむからこうなるんだよ。ブーツ型のトレッキングシューズで地面をじゃりじゃり踏みしめて歩いていく大ちゃんを見ながら、心の中で毒づいた。あの救命胴衣がうらめしい。全然寒そうには見えない。
「ちょっと待ってよ、大ちゃん」
董子は大ちゃんに体当たりするようにぶつかると、彼の左ひじに腕をからませた。
《つづく》
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ダコン、とドアのロックが解除される音。そう、解除されてからでないとドアに触れてはいけない約束だった。助手席のドアの下の縁のほうに数センチの傷をつけてしまったのは前々回のデートのとき。手前にある縁石の高さを気にしないまま、思い切りドアを開けてガリっとやってしまったのだ。大ちゃんは怒らなかったが、それからの静かな用心深さを目の当たりにしてみると、逆に根でも持っているのではないかと恐縮してしまうほどだった。
「ごめん、待った?」
「ううん、五分くらい」
ぼさぼさ髪の大ちゃんは、八部咲きの花のようなゆるい笑顔で迎えてくれた。董子はバッグをいったん大ちゃんにあずけ、シートにすべりこんでていねいにドアを閉めた。ありがとう、とバッグを受けとると、大ちゃんの地味なファッションがすぐに気になった。ベルトの締めつけが心配になる、袖なしの白いダウンベストのようなもの。その下には青のチェックのシャツ、パンツはグレーの「ズボン」だ。
「ねえねえ。その白いベスト、どこで売ってたの?」
「ん? あ、これは近所の釣り用具店で売っていたんだ。安かったから」
「釣り用なの? ふつう、普段着にしないでしょう。救命胴衣みたいだよ」
「あ、そうか。救命胴衣だったのかも」
大ちゃんは何かを発見したような顔で董子を見た。こんなとき、大ちゃんはとぼけているわけではない。冗談を言っているつもりでもないみたい。真に受けているのだ。大ちゃんのまともなジョークは聞いたことがなく、今みたいに不可解な空気を勝手に導き、それが二人の笑いの種になる。本人はなぜ笑われているのか、よく分かっていないと思う。
「ま、いいか。じゃあ出発。シートベルト締めてね」
大ちゃんは横に長い楕円形の目で董子の胸元をチラと見ると、パーキングレバーを下ろし、安全を周到に確認しながら車を出した。
大ちゃんの視線は時々ヘンだ。互いの顔を見合わせるべきところで、董子の胸や太もも、唇なんかも見てくる。決していやらしい感じではない。だけど鈍感な大ちゃんのことだ。つい、どんな女性に対しても同様のことをしているのでは、と考えてしまう。
大ちゃんにその視線の真意をたずねたところで、明確な答えは返ってきそうにもない。物事には執拗にとらわれず、場の雰囲気にまかせて呼吸しているみたいだもん。エッチだって、いつも自分からは誘ってこないもんね。
董子のそんな邪推を知るよしもない大ちゃんは、スコン、スコンとスムーズにギアチェンジをしていく。その動作だけは、いつも男らしく見える。大ちゃんには不思議がつきまとうのだ。
ビルの影が延々と落ちている細い道路。対向する車とすれちがいながら、ゆっくり下っていく。信号機と一緒になった踏み切りを越えると、左右に伸びる両側一車線の国道が見えてきた。県北方面を指し示す青い看板を確認してから右折すると、待っていましたとばかりに、暖かい陽射しが車内に入ってきた。
大ちゃんの車に乗ると、ついついあくびが出てしまう。ドライバーはほとんど無言で安全運転だし、BGMもラジオだし、とにかくのんびりしているのだ。今、足元のスピーカーから流れているのはノイズまじりのAMラジオ。車が加速するたびにキーンという音を発している。ニュースを読むアナウンサーは、プロ野球選手の契約更改について話しているようだった。
とりあえず、幹線道路の流れは順調そうではある。あ、トイレ行きたいんだった。大ちゃんに言っておかなくちゃいけない。
「そうそう。大ちゃん内緒って言ってたけど、どこ行くの?」
「ん? ちょっと山の方」
「山ぁ? 何て山?」
「ん? 別に名前はないけど。里山を見にいこうかなって思って」
「そこで何するの?」
「え、だから、里山の生態系とか景色を堪能するの」
真顔の大ちゃんには悪いが、一瞬でうええ、つまらなさそう、と思ってしまった。山に行くのなら、素敵な展望台のあるレストランで食事くらいしたいのに。
大ちゃんがそんなおしゃれな場所を知っているとは思えないけれど、内緒にしていたわりには内容が寂しすぎる。そもそも何が一番嫌って、ワンゲル部でもできそうなことをデートでしてしまうことだった。
董子は気持ちを表情になるべく出さずに、所要時間を聞いてみた。
「その里山までどれくらいかかるの?」
「今からだと、一時間くらいかな」
「そんなに? 夜ご飯はどうするの?」
「陽が落ちたら、また街に戻って食べに行こうと思っているんだけど」
「そう……」
とてもじゃないけど、落ち着いてトイレを我慢できる行程ではない。大ちゃんがどうしたの? と言いたげな顔で二度三度と董子の方を見た。さすがに山には行きたくないとは言いだせない。せっかく、珍しくも大ちゃんが自発的に誘ってくれたのだし。ただ、つまらなそうな結末が目に浮かぶようなのが心苦しいのだ。
考える素振りを見せても、膀胱の圧迫感はじわじわと増してくる。車が赤信号に引っかかるのを待って、大ちゃんに言った。
「ごめん、大ちゃん。トイレ行きたいんだ。どこか寄ってくれる?」
「あ、いいよ。もう少ししたら大きいスーパーがあるから。そこでいい?」
「うん。ごめんね」
「で、とーこ。トイレは小さいほう?」
董子は大きいほう。なんて言うわけないじゃない。冗談っぽく聞くってことを知らない大ちゃんに、そのまま正直に答えることの方が恥ずかしい。大ちゃんの左肩をばすんとたたいて、ぷいと窓の外を見た。
大ちゃんにはちゃんと察してほしい。気づかいが下手なのは付き合う前から感じてはいたけど、その平然とした態度はただの鈍感では許されないこともある。言って分かってくれたらいいのだけれど、説き伏せる自信が董子にはない。
黄色に緑のラインが入っている電器屋さんの壁には、青い光のイルミネーションがきらきらとしている。もうそろそろクリスマスだね。どうしようか。なんて聞かれてみたい。
やはり、今の二人は中途半端な付き合いをしているのかもしれない。
大ちゃんは赤いバルーンが上がっている大型スーパーの駐車場に車を入れた。トイレを済ましたら、プリッツとペットボトルのホットのお茶を二本買って戻ってこよう。
東京……、円相場は一時八十六円台を突破し……。雑音混じりのラジオの音声がじんわり聞こえてきた。いつの間にか、うとうとしてしまっていたらしい。目覚めると、車は両端に茶色の落葉がどっさり積もっている狭い道をがたがたと登っていた。周りは完全に山で、葉を紅葉させた木々が前から後ろへと流れていく。くすんだ水色の空に見える黄色がかった太陽は、じりじりと下がっていくように見えた。
エアコン吹き出し口の上のデジタル時計は16:32と表示されていた。もうすぐ夕暮れ時だ。肩、手の先、それにスニーカーの中のつま先が異様に冷たくなっている。寒い。ヒーターを入れてほしい。隣の大ちゃんは相変わらず無言でハンドルを握っていた。白い救命胴衣はそんなに保温性が高いのだろうか。
「大ちゃん、ヒーター入れてほしい」
「あ、寒い? ちょっと待ってね」
大ちゃんはエアコンのスイッチを何やら操作してくれた。すぐに強風の冷気が首筋に向かって吹きだされ、やがてそれは暖かい風になった。ラジオの音声は、もはやよく聞こえない。
「もうそろそろ、かな」
大ちゃんの視線は私の横顔を通り越して、外の景色を気にかけていた。つられて、董子もその視線の行く先を追いかける。次第に背の高い木が少なくなり、やがて大きく視界が開けてきた。現れたのは琥珀色の大きな湖面、いや池だ。背の低い水草がぽつぽつと水面からのぞいている。小さな睡蓮の葉のようなものも無数に浮いていた。
「大ちゃん、これって池?」
「うん、ため池。ここに来るまでに田んぼがいっぱいあったでしょ。そこの用水としてここの水を使っているんじゃないかな」
田んぼなんて知らない。寝てたし。大ちゃんは董子が起きていたと思い込んでいるらしい。とりあえず、いびきはかいていなかったということ? 複雑な心境だ。
「橋が見えてきたね」
心なしか、大ちゃんの声は興奮しているように聞こえた。見れば、赤い鉄骨の橋が池の右端から左端へと渡されている。五十メートルくらいはあるだろう。橋上部のアーチからは数十本のワイヤーが下に向かって伸びていた。橋をつるして支えているのかもしれない。
橋を横目に十メートルほど進むと、目前に回転場が現れた。とりあえず、道はここで行き止まりらしい。大ちゃんは回転場で車をくるりと旋回させて停車した。
「とーこ、着いたよ。降りよっか」
「え? 今度はどこ行くの? 歩くの?」
「いや、ほら、あの橋の上に行くだけだから」
「橋の上?」
大ちゃんが何をしたいのか分からずじまいだったが、とりあえず降りなければならないらしい。あ、里山の生態系とか景色を堪能する、とかって言ってたっけ。それをあの橋の上で? 本気だったんだ。いや、それはそうなんだろうけど。
ここまで来て気乗りしない自分は罪な人間なのだろうか。
エンジンを切った大ちゃんは、車から降りると一人気持ちよさそうに伸びをしていた。董子も渋々ドアを開けて外に出たが、予想以上の寒さにぶるりと身をふるわせてしまった。回転場を取り囲むようにせり出した広葉樹が、大きな日陰を作っている。
目の前の大きな木の樹皮にはどろっとした液体が垂れ、そこに白いいも虫みたいなのがたかっていた。見ているだけで気持ちが悪くなる。じめっとした土の匂いも空気中に漂っていた。喧騒とは無縁の山の中にいるなんて、どこか現実離れしている感覚だった。
大ちゃんは車のバックドアを開けて、三脚のようなものを取りだしている。紐のついた大きなカメラも肩にかけていた。
「とーこ、荷物が心配だったら持って出てね」
「う、うん」
董子は体を固まらせたまま、しばらく動きたくないほどだった。でも、大ちゃんには従わざるをえない。デートはハッピーに過ごしてハッピーに終わりたい。両ひざの内側を密着させ、隙間を与えないようにして、車の中からバッグを引きずりだした。
うはー、寒い。寒すぎる。ジーンズでも下にタイツを履いてくれば良かった。もう、大ちゃんが情報を出し惜しむからこうなるんだよ。ブーツ型のトレッキングシューズで地面をじゃりじゃり踏みしめて歩いていく大ちゃんを見ながら、心の中で毒づいた。あの救命胴衣がうらめしい。全然寒そうには見えない。
「ちょっと待ってよ、大ちゃん」
董子は大ちゃんに体当たりするようにぶつかると、彼の左ひじに腕をからませた。
《つづく》
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