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短編小説「トワイライトブリッジ」vol.2 (3話完結)

2009-11-30 18:43:47 | 短編小説
 バスから降りると、駅ロータリーのベンチに座って待つこともなかった。送迎用レーンに、パールホワイトのコンパクトカーがすでに到着していたからだ。トイレに行きたいと一瞬だけ思ったが、大ちゃんを待たせつづけるのは悪いと思い、コンパクトカーに走りよった。

 ダコン、とドアのロックが解除される音。そう、解除されてからでないとドアに触れてはいけない約束だった。助手席のドアの下の縁のほうに数センチの傷をつけてしまったのは前々回のデートのとき。手前にある縁石の高さを気にしないまま、思い切りドアを開けてガリっとやってしまったのだ。大ちゃんは怒らなかったが、それからの静かな用心深さを目の当たりにしてみると、逆に根でも持っているのではないかと恐縮してしまうほどだった。

「ごめん、待った?」
「ううん、五分くらい」
 ぼさぼさ髪の大ちゃんは、八部咲きの花のようなゆるい笑顔で迎えてくれた。董子はバッグをいったん大ちゃんにあずけ、シートにすべりこんでていねいにドアを閉めた。ありがとう、とバッグを受けとると、大ちゃんの地味なファッションがすぐに気になった。ベルトの締めつけが心配になる、袖なしの白いダウンベストのようなもの。その下には青のチェックのシャツ、パンツはグレーの「ズボン」だ。

「ねえねえ。その白いベスト、どこで売ってたの?」
「ん? あ、これは近所の釣り用具店で売っていたんだ。安かったから」
「釣り用なの? ふつう、普段着にしないでしょう。救命胴衣みたいだよ」
「あ、そうか。救命胴衣だったのかも」
 大ちゃんは何かを発見したような顔で董子を見た。こんなとき、大ちゃんはとぼけているわけではない。冗談を言っているつもりでもないみたい。真に受けているのだ。大ちゃんのまともなジョークは聞いたことがなく、今みたいに不可解な空気を勝手に導き、それが二人の笑いの種になる。本人はなぜ笑われているのか、よく分かっていないと思う。

「ま、いいか。じゃあ出発。シートベルト締めてね」
 大ちゃんは横に長い楕円形の目で董子の胸元をチラと見ると、パーキングレバーを下ろし、安全を周到に確認しながら車を出した。

 大ちゃんの視線は時々ヘンだ。互いの顔を見合わせるべきところで、董子の胸や太もも、唇なんかも見てくる。決していやらしい感じではない。だけど鈍感な大ちゃんのことだ。つい、どんな女性に対しても同様のことをしているのでは、と考えてしまう。

 大ちゃんにその視線の真意をたずねたところで、明確な答えは返ってきそうにもない。物事には執拗にとらわれず、場の雰囲気にまかせて呼吸しているみたいだもん。エッチだって、いつも自分からは誘ってこないもんね。

 董子のそんな邪推を知るよしもない大ちゃんは、スコン、スコンとスムーズにギアチェンジをしていく。その動作だけは、いつも男らしく見える。大ちゃんには不思議がつきまとうのだ。

 ビルの影が延々と落ちている細い道路。対向する車とすれちがいながら、ゆっくり下っていく。信号機と一緒になった踏み切りを越えると、左右に伸びる両側一車線の国道が見えてきた。県北方面を指し示す青い看板を確認してから右折すると、待っていましたとばかりに、暖かい陽射しが車内に入ってきた。

 大ちゃんの車に乗ると、ついついあくびが出てしまう。ドライバーはほとんど無言で安全運転だし、BGMもラジオだし、とにかくのんびりしているのだ。今、足元のスピーカーから流れているのはノイズまじりのAMラジオ。車が加速するたびにキーンという音を発している。ニュースを読むアナウンサーは、プロ野球選手の契約更改について話しているようだった。

 とりあえず、幹線道路の流れは順調そうではある。あ、トイレ行きたいんだった。大ちゃんに言っておかなくちゃいけない。

「そうそう。大ちゃん内緒って言ってたけど、どこ行くの?」
「ん? ちょっと山の方」
「山ぁ? 何て山?」
「ん? 別に名前はないけど。里山を見にいこうかなって思って」
「そこで何するの?」
「え、だから、里山の生態系とか景色を堪能するの」

 真顔の大ちゃんには悪いが、一瞬でうええ、つまらなさそう、と思ってしまった。山に行くのなら、素敵な展望台のあるレストランで食事くらいしたいのに。
 大ちゃんがそんなおしゃれな場所を知っているとは思えないけれど、内緒にしていたわりには内容が寂しすぎる。そもそも何が一番嫌って、ワンゲル部でもできそうなことをデートでしてしまうことだった。
 董子は気持ちを表情になるべく出さずに、所要時間を聞いてみた。

「その里山までどれくらいかかるの?」
「今からだと、一時間くらいかな」
「そんなに? 夜ご飯はどうするの?」
「陽が落ちたら、また街に戻って食べに行こうと思っているんだけど」
「そう……」
 とてもじゃないけど、落ち着いてトイレを我慢できる行程ではない。大ちゃんがどうしたの? と言いたげな顔で二度三度と董子の方を見た。さすがに山には行きたくないとは言いだせない。せっかく、珍しくも大ちゃんが自発的に誘ってくれたのだし。ただ、つまらなそうな結末が目に浮かぶようなのが心苦しいのだ。

 考える素振りを見せても、膀胱の圧迫感はじわじわと増してくる。車が赤信号に引っかかるのを待って、大ちゃんに言った。

「ごめん、大ちゃん。トイレ行きたいんだ。どこか寄ってくれる?」
「あ、いいよ。もう少ししたら大きいスーパーがあるから。そこでいい?」
「うん。ごめんね」
「で、とーこ。トイレは小さいほう?」
 董子は大きいほう。なんて言うわけないじゃない。冗談っぽく聞くってことを知らない大ちゃんに、そのまま正直に答えることの方が恥ずかしい。大ちゃんの左肩をばすんとたたいて、ぷいと窓の外を見た。

 大ちゃんにはちゃんと察してほしい。気づかいが下手なのは付き合う前から感じてはいたけど、その平然とした態度はただの鈍感では許されないこともある。言って分かってくれたらいいのだけれど、説き伏せる自信が董子にはない。

 黄色に緑のラインが入っている電器屋さんの壁には、青い光のイルミネーションがきらきらとしている。もうそろそろクリスマスだね。どうしようか。なんて聞かれてみたい。

 やはり、今の二人は中途半端な付き合いをしているのかもしれない。
 
 大ちゃんは赤いバルーンが上がっている大型スーパーの駐車場に車を入れた。トイレを済ましたら、プリッツとペットボトルのホットのお茶を二本買って戻ってこよう。


 東京……、円相場は一時八十六円台を突破し……。雑音混じりのラジオの音声がじんわり聞こえてきた。いつの間にか、うとうとしてしまっていたらしい。目覚めると、車は両端に茶色の落葉がどっさり積もっている狭い道をがたがたと登っていた。周りは完全に山で、葉を紅葉させた木々が前から後ろへと流れていく。くすんだ水色の空に見える黄色がかった太陽は、じりじりと下がっていくように見えた。

 エアコン吹き出し口の上のデジタル時計は16:32と表示されていた。もうすぐ夕暮れ時だ。肩、手の先、それにスニーカーの中のつま先が異様に冷たくなっている。寒い。ヒーターを入れてほしい。隣の大ちゃんは相変わらず無言でハンドルを握っていた。白い救命胴衣はそんなに保温性が高いのだろうか。

「大ちゃん、ヒーター入れてほしい」
「あ、寒い? ちょっと待ってね」
 大ちゃんはエアコンのスイッチを何やら操作してくれた。すぐに強風の冷気が首筋に向かって吹きだされ、やがてそれは暖かい風になった。ラジオの音声は、もはやよく聞こえない。

「もうそろそろ、かな」
 大ちゃんの視線は私の横顔を通り越して、外の景色を気にかけていた。つられて、董子もその視線の行く先を追いかける。次第に背の高い木が少なくなり、やがて大きく視界が開けてきた。現れたのは琥珀色の大きな湖面、いや池だ。背の低い水草がぽつぽつと水面からのぞいている。小さな睡蓮の葉のようなものも無数に浮いていた。

「大ちゃん、これって池?」
「うん、ため池。ここに来るまでに田んぼがいっぱいあったでしょ。そこの用水としてここの水を使っているんじゃないかな」
 田んぼなんて知らない。寝てたし。大ちゃんは董子が起きていたと思い込んでいるらしい。とりあえず、いびきはかいていなかったということ? 複雑な心境だ。

「橋が見えてきたね」
 心なしか、大ちゃんの声は興奮しているように聞こえた。見れば、赤い鉄骨の橋が池の右端から左端へと渡されている。五十メートルくらいはあるだろう。橋上部のアーチからは数十本のワイヤーが下に向かって伸びていた。橋をつるして支えているのかもしれない。

 橋を横目に十メートルほど進むと、目前に回転場が現れた。とりあえず、道はここで行き止まりらしい。大ちゃんは回転場で車をくるりと旋回させて停車した。

「とーこ、着いたよ。降りよっか」
「え? 今度はどこ行くの? 歩くの?」
「いや、ほら、あの橋の上に行くだけだから」
「橋の上?」
 大ちゃんが何をしたいのか分からずじまいだったが、とりあえず降りなければならないらしい。あ、里山の生態系とか景色を堪能する、とかって言ってたっけ。それをあの橋の上で? 本気だったんだ。いや、それはそうなんだろうけど。

 ここまで来て気乗りしない自分は罪な人間なのだろうか。

 エンジンを切った大ちゃんは、車から降りると一人気持ちよさそうに伸びをしていた。董子も渋々ドアを開けて外に出たが、予想以上の寒さにぶるりと身をふるわせてしまった。回転場を取り囲むようにせり出した広葉樹が、大きな日陰を作っている。
 
 目の前の大きな木の樹皮にはどろっとした液体が垂れ、そこに白いいも虫みたいなのがたかっていた。見ているだけで気持ちが悪くなる。じめっとした土の匂いも空気中に漂っていた。喧騒とは無縁の山の中にいるなんて、どこか現実離れしている感覚だった。   

 大ちゃんは車のバックドアを開けて、三脚のようなものを取りだしている。紐のついた大きなカメラも肩にかけていた。

「とーこ、荷物が心配だったら持って出てね」
「う、うん」
 董子は体を固まらせたまま、しばらく動きたくないほどだった。でも、大ちゃんには従わざるをえない。デートはハッピーに過ごしてハッピーに終わりたい。両ひざの内側を密着させ、隙間を与えないようにして、車の中からバッグを引きずりだした。

 うはー、寒い。寒すぎる。ジーンズでも下にタイツを履いてくれば良かった。もう、大ちゃんが情報を出し惜しむからこうなるんだよ。ブーツ型のトレッキングシューズで地面をじゃりじゃり踏みしめて歩いていく大ちゃんを見ながら、心の中で毒づいた。あの救命胴衣がうらめしい。全然寒そうには見えない。

「ちょっと待ってよ、大ちゃん」
 董子は大ちゃんに体当たりするようにぶつかると、彼の左ひじに腕をからませた。


《つづく》


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短編小説「トワイライトブリッジ」vol.3 (3話完結)

2009-11-29 10:04:37 | 短編小説
 灰がかった白とうすいピンクが混ざったような空の色。陽はずいぶんかたむいていて、そこからの熱量はあまり感じられない。二人で赤い鉄骨の橋を渡りはじめると、キシキシと音がした。

 このアーチ型の橋の幅は五メートルほどで、一応アスファルトの舗装がされている。橋上部から下りてくるのは、なだらかな傾斜をみせる数十本の銀色のポール。銅材からできているようなそれらのワイヤーは、全てが欄干の外側に降りていき、橋の下部のどこかで固定されているようだった。
 
 鉄骨の塗装はところどころはげ落ち、焦げたような錆が表出している。橋が終わる向こう側には、細い舗装路が奥深く伸びていた。人っ子一人いない。大ちゃんの車がもし故障したら、救援を待つのにどのくらいの時間を要するのだろう。考えるだけで不安になった。

「大ちゃん、車のガソリン残ってる?」
「残ってるよ。なんで?」
 大ちゃんは董子の顔を不思議そうに見ながら、担いでいた三脚を下ろした。

「だって、こんな誰もいないところで車が止まったらどうするの?」
「大丈夫だよ。点検はちゃんとしているし。万が一止まっても、保険会社のレスキューを呼ぶから」
「写真撮ったら、すぐ帰るんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
 大ちゃんは三脚にカメラを固定することに意識を集中させている。彼の願望を叶える小旅行に、董子は付き添わされているようだった。董子の細部まで気にかけてほしい。色々と思うことがあるんだから。遠心力を利用して茶のバッグを大ちゃんのお尻に何度か当てつづけても、大ちゃんはファインダーをのぞくことをやめなかった。

 ため息をついて欄干から身を乗りだす。真正面にはほぼ平行に近い緑の稜線が横たわっている。よく見れば、この池はそれらの低い山々に囲まれていた。鏡のような琥珀色の水面にもそれらの景色が映りこんでいる。ピィーと鳴く一羽の小さな鳥が水面ぎりぎりのところを飛んでいた。そのばたばたという羽音だけがこの辺り一面に響いている。とんでもない静けさ。どこか懐かしい自然の原風景の中にいるようだった。

 例の小さな鳥は静かに着水すると、つつーと泳ぎはじめた。頭部に赤い褐色と緑色の模様がある見たこともない鳥だった。ひまつぶしに大ちゃんに質問することにした。

「大ちゃん、あの鳥なんて名前?」
「どれ? ああ、あれは小鴨だね」
「コガモ?」
「うん。ユーラシア大陸の北のほうで繁殖して、この時期に冬鳥として日本に飛んでくるんだ」
 大ちゃんはコガモを一瞥しただけでまたすぐにカメラをのぞきこみ、棒読みのセリフのように答えた。人の顔を見ながら話してほしい。つまらないって言っちゃうよ、ほんとに。

 バッグでとどめの一発を大ちゃんに見舞ってから、欄干にひじをついて顔のしたあごを両手で支えた。池の奥に目をやればやるほど、背の低い黄色の水草が増えていく。その辺りになると水面は見えず、ほとんど地表の草原のようだった。誤って落ちてしまったらと思うと、ぞっとする。

 池の左手には、池に沿うような形で並走する小道があった。乾いた白い土の色が膨張して見える。小道の脇には、名前の知らない濃い紫の花や赤い実をつけた植物がたくさん並んでいた。きれい。あれらの花や植物の名が、ぽんぽんと頭に浮かぶと気持ちいいだろうな。世の中知らないことだらけだ。

 大ちゃんはカメラの調整を終えると、息を深く吸いこみ、景色を眺めている。オレンジ色に照らされた彼のまっすぐな横顔を見ていると、なんだか切なくなる。彼がここに一人でいたとしても、きっと同じような顔を見せているのではないだろうか。

 大ちゃんはここに在るもののいわれは全部知っていそうだけど、董子のことをどこまで知っているのだろう。こっちが色々聞くだけだから、取りこぼしが多くなり、溝が何層もできていってしまう。だから最近イライラが多いのかな。二人が濃く付き合っているって思えない、それがストレスになっているのかな。

 二人で静かになっていると、不満やぐちが噴出してくる。それを大ちゃんへそのままぶつけても、大ちゃんは淡々としているだろう。別れようとも思えないけれど、大ちゃんに変わってほしいのか、董子が変わればいいのかよく分からなくなる。

 何度目かのため息をつくと、吐く息が見えたような気がした。

 なんだか急速に夕空が押し寄せてきたみたい。オレンジから赤へのグラデーションを有する太陽が、低い稜線に飲みこまれていく。夕焼けだ。普段、実家の一人部屋にこもっていてはなかなかお目にかかれない風景ではある。池にも黄金色がさんさんと散りばめられていた。素直に美しい。

「とーこ、見て。見てくれた? 綺麗だよね」
 大ちゃんが興奮気味に夕陽を指さしていた。結局、大ちゃんはこの景色が一番見たかったのだろう。瞳がきらめいていて、多くの水分で潤っているのがわかる。大ちゃんの心は汚れていないのだろう。きっと、純粋とか無垢だとかの成分で構成されているのかもね。 
 
 そこに董子を大容量に反映してくれる余地は残っていないものだろうか。いや、全部を気にかけてくれなくてもいい。最低限、董子の感情を見極めてほしい。
 そろそろ言わなきゃいけない時期なのだ。大きなけんかくらいしたっていい。二人のためになることを、見出さねばならない。

「とーこ、どう? よかった?」
「大ちゃんさ」
「うん?」
「董子にちゃんと向きあってくれてる?」
「なにが?」
「だから、この夕陽に思い入れるみたいに、私に関心を持ってくれているかってこと」

 大ちゃんは笑顔をなくしたみたいだった。艶っぽく輝くほっぺたが、がくんと下がっていた。やば、傷つけちゃったか。でもそんな感情を抱いてくれたならば、少しは自分を省みてくれた証拠ともとれる。大ちゃんはたん、と軽い音を立てて、右の手を欄干にのせた。

「とーこ、寒いんだったよね」
 大ちゃんは真剣な顔でそう言うと、ごそごそと白い救命胴衣を脱ぎはじめた。

「はい、着てみて」
「え?」
「いいから、着て」
 董子は言われるがままに救命胴衣を受けとり、とまどいながら自分のコートを脱いで、それを大ちゃんに渡した。白いダウンベストもどきを身につけると、つんつるてんの裏地がただただ冷たかった。

「冷たい! なにこれ、全然暖かくないじゃん!」
「そーお? 俺は普通に暖かかったけど」
 不思議そうに董子を見つめる大ちゃんは、何を思ったか董子の茶のコートを身につけようとしていた。

「ちょ、何してんの? 着られるわけないじゃん。もうやめてよ、破れちゃうでしょ」
「そう? うーん。じゃあ脱ぐ」
 大ちゃんは袖を通しかけたコートを渋々脱いでくれた。身長差十センチ以上あるのよ? どうねじこんでも無理。こんなことを真面目にやるから大ちゃんを信じられなくなるのだ。だめ。やっぱりだめ。大ちゃんには何を言っても念仏みたいに捉えられる。

「寒い寒い。早く返して」
 救命胴衣の下は薄手の長袖のニットなのだ。頭の先から胸の先まで、とにかく全身に鳥肌が立っていた。

「待って。そういえば写真を一枚も撮ってないや。とーこ、写真を撮ってあげる」
「ええ? いいよ後で。とにかく先にコート返して!」
「記念日、記念日!」
「どんな記念日よ?」
「すぐ終わるから」
「寒いって言ってるでしょ!」
 大ちゃんはとうとう董子を無視して、黒いカメラのレンズを向けてきた。董子は彼のその身勝手な行動に本気でキレそうになった。

「さむいー!」
 大ちゃんに背を向けて夕陽に向かって叫んでやった。やまびこのように声は戻ってこなかったが、二秒くらいの残響音は残り、怒りをその場で発散したような気分になった。

「ありがと。いいのが撮れた」
 背後でのんきに答える大ちゃん。まったく、どういう神経してんの? 今度は董子の方が無視しようと決めた。

 無言で救命胴衣を返し、大事なコートを取り戻す。はあ、暖かい。大ちゃんの体は絶対に異常をきたしている。大ちゃんは董子の怒りをよそに、カメラ本体の画面で撮影した写真を確認しているようだった。

 それからはずっと沈黙していた。橋に街灯は無く、もと来た道にも数えるほどしか灯っていなかった。ほんの十分くらいの間に、あっという間に暮れかけていく空をただ見つめ、辺り一帯を蛙や虫の音に占領されてもうるさいとも思わなかった。池は真っ黒で、何が映っているのかも見えない。董子は凍えながらも、大ちゃんにぴったりと寄りそっていた。

 これまでもどちらかが帰ろうと言いださなければ、デートの帰路にはつかなかった。いつもは董子から切りだすことが多い。今日は、どうだろう。振りまわされたから、大ちゃんには責任を持って切りだしてほしい気分だった。もちろん寒さの限界に達すれば、董子が口火を切ることは分かっていたけれど。

「真っ暗だね」
 ぼそっとつぶやいた大ちゃんは、董子の手を強く握ってきた。こくん、と胸が高鳴る。こんなに積極的な大ちゃんは珍しい。大ちゃんの顔を見ても、薄暗くて表情は窺い知れなかった。ただ、目の光沢だけはかろうじて確認できる。

 息が詰まるのとはまた異なる、心地よい緊張感だった。

 このあと、ヘンなことになってもいい。それならもう、今日の大ちゃんのちょんぼは帳消しになるよ。董子は大ちゃんを励ますように心で唱えた。大ちゃんを広い目で見てあげないといけないのに、思ったようなふるまいをしてくれないというだけでかりかりしていた。董子がわがままで、寂しがり屋なのもいけなかった。自分だって大ちゃんに向き合っていないのかも。大ちゃんだけじゃなく、董子も変わらなければいけないのに。

 優しくされるとぐずぐずする心。見透かされたくない弱い部分。大ちゃんがこれをかぎつけたら、それはもう奇跡としか言いようがない。
 右手の温もりだけがいつまでも持続していく。大ちゃんはまだ動かない。アルコール臭のする冷気が鼻を刺激する。あんまり我慢できないよ、大ちゃん。董子は彼の左手を強くにぎりかえした。

「とーこ、誕生日おめでとう」
 意を決したように吐かれた大ちゃんのセリフ。大ちゃんの荒い鼻息だけがふひー、ふひーと聞こえている。董子は文字通り、ポカーン、としてしまった。

「今日、私の誕生日じゃないよ? まちがえてない?」
「うそ? 十一月二十四日でしょ?」
「ちがうよぉ。一月、二十四日だよ。大ちゃんより二週間年下。覚えてないの?」
 大ちゃんは何も答えなかった。恐らくは大真面目な顔でショックを受けていることだろう。そのとき、董子は何となく感づいた。今日ここに連れてきてくれたのも、誕生日を意識してくれていたからなのだと。連呼していた「記念日」っていうのも……。そうか、そういう意味だったんだね。

「だめだな俺って。とーこ、ごめん。」
 大ちゃんは董子から手を離し、首をたれていた。今まで聞いたこともない沈んだ声だった。いつもなら、きょとんとして何事もなったかのように場をやり過ごしていた人なのに。大ちゃんの董子に対する能動的な気持ちがすごく感じられた。この場で大ちゃんを責めることは場ちがいだ。

「落ちこまないで。大ちゃんらしいよ。誕生日のこと気に留めていてくれて、ありがとう」
「怒ってないの?」
「ぜんぜん」
「本当に?」
「うん」
「だって、二ヶ月も誕生日を勘ちがいしていたんだよ?」
「しょうがないじゃん。勘ちがいは誰にでもあるよ」
「うそ、とーこじゃないみたい」
「どういう意味? 怒るよ」
「わあ、ごめんごめん」

 両手をぶるぶる振っている大ちゃんがおかしくて、声をあげて笑ってしまった。今日は嘘の誕生日でもいいや。思い切り、祝ってほしくなっちゃった。少し離れていた二人の距離はまた近くになった。

 大ちゃんと向きあって、そうなることが自然の成り行きであったかのように目を閉じる。最後の最後で大ちゃんはうまくリードしてくれた。董子は暗がりに包まれながら、とろけていた。

「夜ご飯、何が食べたい?」
 シートベルトをしめながら大ちゃんが聞いてきた。エンジンの始動とともに、全開のヒーターが手前から吹きだしてきた。車内は底冷えのする寒さだった。

「熱いものがいいな。お好み焼きはどう?」
「お店のお好み焼き?」
「あ、じゃあ大ちゃんのアパートで作る? 帰りにまたスーパー寄ってさ、食材買おうよ」
「あ、いいかもね」

 大ちゃんの晴れやかな表情は、スピードメーターから発せられる弱い明かりの中でも分かった。董子はそれを見て、うんうんとうなずいた。大ちゃんの車は、石や木の枝をぱちぱちと踏みながらゆっくりと橋の横を通過した。リアウインドウのスモークガラス越し、もとから見えてもいない橋をしばらく追いかけてみる。正真正銘の一月二十四日に、もう一度この場所に来てもいいと思った。

 相手を思うと夜も眠れなかった初々しい季節は過ぎ、恋人として付きあっているのかどうかも疑わしかった日々。でも希望を捨てなければ、何が起こっても不思議ではないということを大ちゃんが教えてくれた。本当のクライマックスはまだまだ先にあるような気がする。ハイビームのライトに照らされて光が届く、あの遠い道のように。


《おわり》


              
                
               ひとりごと


sa12colorです。
「里山」の言葉の生みの親で、日本の森林生態学の第一人者であった、四手井綱英(しでい・つなひで)さん。先月26日、肺炎のため97歳で永眠されました。
心から哀悼の意を表します。


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