第四章
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安藤がそうであったように、世間もお盆休みに突入しているらしい。俺にとってみれば、それはただの日常にしかすぎなかったが、ガソリンスタンドには行楽地へ向かう家族連れの車が多くやってくるようになっていて、なんとなくそれを実感していた。
ここにいた三年もの間に、季節の移り変わりの早さというものを肌で体感していた。しかも、その間隔は年を重ねるごとに短くなってきている。いつからか時は確実に加速をはじめていたように思う。それがいつだったかなんてつきとめることはできないけれど。
一分が五分にも感じられることもたまにあるが、基本的には泣いても笑っても時間は止まってはくれない。きっとこれからもそうなのだと思う。
今日はより子の描いた絵がレストランの看板部分に設置される日である。だが、俺は日中にバイトがあったためにその作業を見届けることはできない。レストランには夕方から赴くことになる。
スタンドでの勤務がおわると、日の落ちかけた太陽に追われながら海岸道路を飛ばし、レストランへ直行した。道中、車のバンパーがいよいよ外れかかっているのか、振動を拾うたびにガンガンと何かを打ちつけるような音をたてていた。明日、安藤と車の修理をしに行く約束をしている。その日の具体的な予定はまだ決めていない。
フロントガラス越しの見慣れた景色にやがてレストランが映りはじめた。向かって正面に見えてくるレストラン。その場所は明らかに新鮮な雰囲気につつまれている。いつも、店の前で高さ十メートルくらいの緑の鉄柱に支えられていたレストランの看板はなくなり、代わりに眩いほどの金色の海と一輪の赤い花火が印象的なより子の絵がそこには掲げられていた。
看板の絵柄が一つ変わっただけで、そこに建っている建物までも真新しく見えるのが不思議だった。ここってレストランだったよな。俺は何度もそう自分に問いかけながら、見覚えのある駐車場に車を入れていた。
車から降りて、より子の絵を下から見あげると今が現実じゃないような気持ちになる。絵のなかの花火がはるかかなたの上空に溶け込んでいくかのような錯覚をおこす。金色の海も、傾き始めた陽に呼応するかのようにますます映えていく。夢のなかにいるみたいだ。現実感をあたえてくれるものは、花火大会のタイトル、日時、そして場所を記したゴシック体の白抜きの文字と、その絵の裏側にもともとあるレストランの看板だけであった。
より子の絵はついこないだまで手を伸ばせば届くところにあって、俺だってその気になればペンキの一滴ぐらいはキャンバスに染みこませることができたのだ。それくらい身近な存在だった。
それが今や地上十メートルの高さではあるが、かぎりなく天に近いところに置かれている。手を伸ばしても届かないところへいってしまった。とても遠いもの。より子の絵はその象徴のようなものだった。
より子を誇らしく思う。それと同時に、より子への嫉妬もある。また一つ、あいつの夢がかなった瞬間を見せつけられてしまった。
視界から看板が見えなくなるまで首をまわし、俺は作業小屋に向かう。小屋に入ると、より子と安藤がいすに腰掛け、明るい表情で談笑していた。二人は俺に気づくと、声をそろえて「おつかれー」と言ってくれた。
「ね、見てくれた?」
白黒のボーダー柄のカットソー、乳白色のスカートといういでたちのより子が聞いてきた。
「うん、見た。すごかった」
「でしょう?」
「いっそカネを取っちゃえばいいのにと思ったもん」
「うれしいこと言ってくれるじゃん」
「今回は泣かなかったのか?」
「それがさぁ、泣けなかったのよ! でもね、なぜか笑いがとまらなかったの」
「泣く場面を間違えたんだな、きっとな」
「きゃー、それを言わないで!」
より子はうれしそうな顔をしながら両手で耳をふさいでいる。駐車場で泣いてしまったことは一生の不覚だったと言わんばかりに。すぐに安藤がいじわるそうな笑みを浮かべて
より子の両手を耳からはがそうとしている。
今日の安藤の服装は、胸元のボタンが大胆に開けられているスレートブルーのポロに、オフホワイトの細身のパンツというものだった。あしもとには銀色のサンダルが光っている。
安藤はいつになくお洒落だと思う。どこがお洒落って、たぶんそれは服装の選択。ファッション雑誌にでも載っているような服がいい。でも、今日もふくらはぎが露出されていなかった。ジーンズやパンツを履く安藤は、ロングスカートは履いていた頃よりもそのガードを堅くしているように感じられる。
より子が「智子のバカヂカラ!」とくやしそうな声をあげた。安藤がより子の両耳から手をはがすことに成功してにんまりと笑っていた。俺はふと机の上に銀色のデジタルカメラが無造作に置かれているのに気づいた。そういえばあの絵を写真に残したのだろうか。
「写真とったのか? あの絵の」
「うん。昼間に設置されたときに少しね。夜にもまた撮ろうと思ってるの。夜は絵がライトアップされるじゃない? きれいだとおもうんだ。あ、昼間に撮ったやつ見る?」
より子はそう言うと、俺にデジタルカメラを渡してくれた。「右矢印のボタンを押していったら順に見られるよ」と操作方法も教えてくれる。言われたとおりにボタンをピッピと押していくと、四センチ四方の液晶画面に、青いクレーン車によって絵がつりあげられてから看板部分に設置されるまでの様子が次々と表示されていった。黄色のヘルメットをかぶった四人ぐらいの作業員が看板の周囲に組まれた足場に立ち、ワイヤーで吊られた絵を慎重に取り扱っているのがわかる。レストランがバックに映っているそれらの写真を見ると、新装開店のための工事をしているようにも見えた。
より子たちが写っている写真もあった。二十四枚目の写真には、緊張感のある作業風景を背後に、より子と安藤が黄色いヘルメットをかぶり、ピースサインをしてにっこり笑っていた。俺はそれを見ておもわず鼻息をもらしながら笑ってしまった。最後の写真なんかは花火大会の製作委員の人なのだろうか、背広を着てぎこちない笑顔で絵の方を指さしている。おそらくより子にポーズを強制されたに違いない。
「なによ。面白い写真でもあったの?」
「いやいや。けっこう大掛かりな作業だったんだなあってね」
俺はニヤニヤしながら答えていたと思う。
「あんたも夜に撮ってあげるよ」
「はは。ありがとう」
俺はそれからもしばらく写真を繰り返し見ていた。その間、より子と安藤は最近観た映画について話をしていたようだった。
「ね、時間あるからさ、みんなで夜ご飯食べない?」
壁に掛けられている鳩時計がちょうど七時になろうとしていたころ、より子が提案をしてきた。
「あ、いいかも、いいかも」
安藤がパンと手を合わせて賛同する。より子は俺にどうする? という視線を送ってきた。
「いいよね?」
「ああ。べつにいいよ」
「じゃ、いこうか!」
より子は血色のよい顔をさらに輝かせていた。気づけば彼女のペースにぐいっとひきこまれている。彼女と触れあえば、誰もがハッピーな気分になれるような気がする。
俺たち三人は、空と海原が見わたせる席で夕食を食べた。メニューは三人とも一緒で、えびやイカ、そして貝柱が玉ねぎやサヤインゲンとともにあふれかえっているシーフードカレーだった。なぜかここではカレーを食べることが多い。
より子はここでも明るくおしゃべりをつづけていた。安藤はときどき相槌とやわらかなつっこみをより子にいれ、俺に同意をもとめる。俺はうなずき、意見を少しはさみ、水を飲む。たいくつという言葉が見当たらない三角の輪がそこにはあった。
その間に夕陽は地平線にどっぷりと沈んでいき、空はどこからか月と星をはこんできた。そして必要なだけの雲を風かなにかでただよわせて夜がやってくる。眼下に見おろせる海はただその変化を見守っていた。早送りをされたような夏の夜のできかただ。
俺はより子と安藤といる今年の夏が本当に早く過ぎていくと感じていた。何かの終わりに近づいているような、そんな気がしないでもない。
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安藤がそうであったように、世間もお盆休みに突入しているらしい。俺にとってみれば、それはただの日常にしかすぎなかったが、ガソリンスタンドには行楽地へ向かう家族連れの車が多くやってくるようになっていて、なんとなくそれを実感していた。
ここにいた三年もの間に、季節の移り変わりの早さというものを肌で体感していた。しかも、その間隔は年を重ねるごとに短くなってきている。いつからか時は確実に加速をはじめていたように思う。それがいつだったかなんてつきとめることはできないけれど。
一分が五分にも感じられることもたまにあるが、基本的には泣いても笑っても時間は止まってはくれない。きっとこれからもそうなのだと思う。
今日はより子の描いた絵がレストランの看板部分に設置される日である。だが、俺は日中にバイトがあったためにその作業を見届けることはできない。レストランには夕方から赴くことになる。
スタンドでの勤務がおわると、日の落ちかけた太陽に追われながら海岸道路を飛ばし、レストランへ直行した。道中、車のバンパーがいよいよ外れかかっているのか、振動を拾うたびにガンガンと何かを打ちつけるような音をたてていた。明日、安藤と車の修理をしに行く約束をしている。その日の具体的な予定はまだ決めていない。
フロントガラス越しの見慣れた景色にやがてレストランが映りはじめた。向かって正面に見えてくるレストラン。その場所は明らかに新鮮な雰囲気につつまれている。いつも、店の前で高さ十メートルくらいの緑の鉄柱に支えられていたレストランの看板はなくなり、代わりに眩いほどの金色の海と一輪の赤い花火が印象的なより子の絵がそこには掲げられていた。
看板の絵柄が一つ変わっただけで、そこに建っている建物までも真新しく見えるのが不思議だった。ここってレストランだったよな。俺は何度もそう自分に問いかけながら、見覚えのある駐車場に車を入れていた。
車から降りて、より子の絵を下から見あげると今が現実じゃないような気持ちになる。絵のなかの花火がはるかかなたの上空に溶け込んでいくかのような錯覚をおこす。金色の海も、傾き始めた陽に呼応するかのようにますます映えていく。夢のなかにいるみたいだ。現実感をあたえてくれるものは、花火大会のタイトル、日時、そして場所を記したゴシック体の白抜きの文字と、その絵の裏側にもともとあるレストランの看板だけであった。
より子の絵はついこないだまで手を伸ばせば届くところにあって、俺だってその気になればペンキの一滴ぐらいはキャンバスに染みこませることができたのだ。それくらい身近な存在だった。
それが今や地上十メートルの高さではあるが、かぎりなく天に近いところに置かれている。手を伸ばしても届かないところへいってしまった。とても遠いもの。より子の絵はその象徴のようなものだった。
より子を誇らしく思う。それと同時に、より子への嫉妬もある。また一つ、あいつの夢がかなった瞬間を見せつけられてしまった。
視界から看板が見えなくなるまで首をまわし、俺は作業小屋に向かう。小屋に入ると、より子と安藤がいすに腰掛け、明るい表情で談笑していた。二人は俺に気づくと、声をそろえて「おつかれー」と言ってくれた。
「ね、見てくれた?」
白黒のボーダー柄のカットソー、乳白色のスカートといういでたちのより子が聞いてきた。
「うん、見た。すごかった」
「でしょう?」
「いっそカネを取っちゃえばいいのにと思ったもん」
「うれしいこと言ってくれるじゃん」
「今回は泣かなかったのか?」
「それがさぁ、泣けなかったのよ! でもね、なぜか笑いがとまらなかったの」
「泣く場面を間違えたんだな、きっとな」
「きゃー、それを言わないで!」
より子はうれしそうな顔をしながら両手で耳をふさいでいる。駐車場で泣いてしまったことは一生の不覚だったと言わんばかりに。すぐに安藤がいじわるそうな笑みを浮かべて
より子の両手を耳からはがそうとしている。
今日の安藤の服装は、胸元のボタンが大胆に開けられているスレートブルーのポロに、オフホワイトの細身のパンツというものだった。あしもとには銀色のサンダルが光っている。
安藤はいつになくお洒落だと思う。どこがお洒落って、たぶんそれは服装の選択。ファッション雑誌にでも載っているような服がいい。でも、今日もふくらはぎが露出されていなかった。ジーンズやパンツを履く安藤は、ロングスカートは履いていた頃よりもそのガードを堅くしているように感じられる。
より子が「智子のバカヂカラ!」とくやしそうな声をあげた。安藤がより子の両耳から手をはがすことに成功してにんまりと笑っていた。俺はふと机の上に銀色のデジタルカメラが無造作に置かれているのに気づいた。そういえばあの絵を写真に残したのだろうか。
「写真とったのか? あの絵の」
「うん。昼間に設置されたときに少しね。夜にもまた撮ろうと思ってるの。夜は絵がライトアップされるじゃない? きれいだとおもうんだ。あ、昼間に撮ったやつ見る?」
より子はそう言うと、俺にデジタルカメラを渡してくれた。「右矢印のボタンを押していったら順に見られるよ」と操作方法も教えてくれる。言われたとおりにボタンをピッピと押していくと、四センチ四方の液晶画面に、青いクレーン車によって絵がつりあげられてから看板部分に設置されるまでの様子が次々と表示されていった。黄色のヘルメットをかぶった四人ぐらいの作業員が看板の周囲に組まれた足場に立ち、ワイヤーで吊られた絵を慎重に取り扱っているのがわかる。レストランがバックに映っているそれらの写真を見ると、新装開店のための工事をしているようにも見えた。
より子たちが写っている写真もあった。二十四枚目の写真には、緊張感のある作業風景を背後に、より子と安藤が黄色いヘルメットをかぶり、ピースサインをしてにっこり笑っていた。俺はそれを見ておもわず鼻息をもらしながら笑ってしまった。最後の写真なんかは花火大会の製作委員の人なのだろうか、背広を着てぎこちない笑顔で絵の方を指さしている。おそらくより子にポーズを強制されたに違いない。
「なによ。面白い写真でもあったの?」
「いやいや。けっこう大掛かりな作業だったんだなあってね」
俺はニヤニヤしながら答えていたと思う。
「あんたも夜に撮ってあげるよ」
「はは。ありがとう」
俺はそれからもしばらく写真を繰り返し見ていた。その間、より子と安藤は最近観た映画について話をしていたようだった。
「ね、時間あるからさ、みんなで夜ご飯食べない?」
壁に掛けられている鳩時計がちょうど七時になろうとしていたころ、より子が提案をしてきた。
「あ、いいかも、いいかも」
安藤がパンと手を合わせて賛同する。より子は俺にどうする? という視線を送ってきた。
「いいよね?」
「ああ。べつにいいよ」
「じゃ、いこうか!」
より子は血色のよい顔をさらに輝かせていた。気づけば彼女のペースにぐいっとひきこまれている。彼女と触れあえば、誰もがハッピーな気分になれるような気がする。
俺たち三人は、空と海原が見わたせる席で夕食を食べた。メニューは三人とも一緒で、えびやイカ、そして貝柱が玉ねぎやサヤインゲンとともにあふれかえっているシーフードカレーだった。なぜかここではカレーを食べることが多い。
より子はここでも明るくおしゃべりをつづけていた。安藤はときどき相槌とやわらかなつっこみをより子にいれ、俺に同意をもとめる。俺はうなずき、意見を少しはさみ、水を飲む。たいくつという言葉が見当たらない三角の輪がそこにはあった。
その間に夕陽は地平線にどっぷりと沈んでいき、空はどこからか月と星をはこんできた。そして必要なだけの雲を風かなにかでただよわせて夜がやってくる。眼下に見おろせる海はただその変化を見守っていた。早送りをされたような夏の夜のできかただ。
俺はより子と安藤といる今年の夏が本当に早く過ぎていくと感じていた。何かの終わりに近づいているような、そんな気がしないでもない。