俄かに「侵略・戦地での慰安」が問題化している。
この時期に突如起こるとは?
裏面に何か政治的思惑が!
沖縄に駐在している兵士に、新聞に出ない問題があるのか。問題化している、基地を無人島に移すとの案は海兵隊の反対をうけた。淋しい所では士気が衰えるから。
米本土の軍の駐留地には風営業は存在しないのか?
かって、ベトナム戦争の映画で米兵士が現地女性と交渉するシーンがあった(戦争では何処の兵士も変わらぬ)
戦争とは何か?侵略の定義とは?
歴史的にフランスのナポレオンは欧州を席巻した。
これは”侵略”だったのか?
此処でナポレオンの戦史を見てみる!
① 交戦国
オーストリア帝国
オスマン帝国
ロシア帝国
プロイセン王国=ドイツ
スペイン王国
ポルトガル王国
両シチリア王国
教皇領=バチカン
サルデーニャ王国=イタリア
スウェーデン
ネーデルラント連合王国
ブルボン家=スペイン
ハノーファー選帝侯国=北ドイツ
ブラウンシュヴァイク公国=北ドイツ
イギリス
② 戦歴
第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)
フランスの総裁政府は、ライン方面から2個軍、北イタリア方面から1個軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦。
イタリア方面軍の司令官に任命されたナポレオンは攻勢に出る。サルデーニャ王国をわずか1か月で降伏させ、マントヴァは開城。オーストリアは停戦を申し入れ、レオーベンの和約が成立した。フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合し、北イタリアにはチザルピーナ共和国などのフランスの衛星国が成立した
エジプト・シリア戦役
独裁権を握った。1800年、ナポレオンは反撃のためアルプス山脈を越えて北イタリアに進出。6月14日のマレンゴの戦いでは、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する
陸戦と海戦(第三次対仏大同盟)
イギリスは、オーストリア・ハプスブルク、ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成した。}オーストリア軍を包囲し降伏させた。ナポレオンはウィーンに入城するが、ロシア皇帝アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑む。
ドイツ諸邦の制圧
プロイセンは中立的立場イギリス、ロシア、スウェーデンなどと共に第四次対仏大同盟プロイセン軍は壊滅的打撃を受ける。にベルリンへ入城した
泥沼の戦い(スペイン独立戦争
オーストリア帝国は、1809年4月9日イギリスと第五次対仏大同盟を結成し、1805年のプレスブルクの和約で失った領土の奪還へと乗り出した。
ロシア遠征
ナポレオンはフランス軍主力を率いてベルギーへ向かい、6月15日、リニーの戦いでプロイセン軍に勝利。グルーシーに別働隊を与えてプロイセン軍を追撃させ、自身はワーテルローでイギリス・オランダ連合軍と対峙した。
6月18日、ワーテルローの戦いが開始された。フランス軍とイギリス・オランダ連合軍が激戦を繰り広げている最中、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が続々と戦場へ到着し、フランス軍の側面に猛攻を掛けた。これが決定的な打撃となり、フランス軍は潰走した。プロイセン軍は夜通しの追撃を行い、フランス軍は完全に崩壊した。
ナポレオンの復活は百日天下に終わった。6月22日、ナポレオンは再び退位し、セントヘレナ島へ配流となった。フランス革命以降断続的に20年以上にわたって続いた戦乱は、11月20日の第二次パリ条約締結をもって正式に終結した
陸戦と海戦(第三次対仏大同盟)
フランスは宣戦を受けて防禦に立ち向かったことや、他国に侵攻したこともある。
戦争に勝敗はある。ナポレオンは戦争で勝利して制服した。
歴史は侵略とは言って居ない。
ナポレオンが用い、広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。彼は 国民軍(傭兵)を止めて、徴兵制を創めた。また、各種の法典を整備した、 後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。
砲兵・騎兵・歩兵の連携、輜重の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となった。
フランス革命の理念(自由、平等、博愛)がナポレオン戦争によって各国に輸出されたということも見逃してはならない。歴史的功績もある。各国の旧体制から人民を解放。近代化する大義名分が仏側にあった。
彼の発した有名な言葉「余の(私の)辞書には不可能の言葉は無い」(この辞書は不完全である)
それで、不完全 なものを「ナポレオンの辞書」と呼ばれる。
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