磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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内田康哉

2009年05月23日 | 読書日記など
『内田康哉』
  内田康哉伝記編纂委員会、鹿島平和研究所・編/
    鹿島研究所出版会1969年

困った人たちは、困った人を誉め上げる……。



「序」に書かれてあります。下「」引用。

「内田康哉は、明治二十年七月外務省へ奉職され、明治時代(明治四十四年十月--大正元年十二月)、大正時代(大正七月九月--大正十二月九月)、昭和時代(昭和七年七月--昭和八月九月)と、三度も外務大臣に就任し、その重職にあること七年四カ月の長さに及び、その間中国辛亥革命、パリ講和会議、ワシントン会議、さらに満州事変等の重要な外交問題の処理を担当した外務省の大先輩である。昭和十一月三月死去されたが、その後、生前縁故の深かった青木新元公使を主任として、故内田康哉伝記編纂委員会が設けられ、外務省の後援、南満洲鉄道株式会社、日魯漁業株式会社の援助のもとで、伝記編纂の事業が実施された。その終戦頃までに大部な原稿が作成され、戦後も加筆に努められたが、筆者の健康上の理由等で打ち切られていた。-略-」

3「第一章 前史--誕生と生い立ち」 下「」引用。

「一八六五年九月二十九日(慶應元年八月十七日)内田康哉は父玄真、母仁加の長子として肥後(熊本県)の和鹿島の地に誕生した。幼名を健太郎と言う。
 当時における内外の情勢は、西力東進の勢いが日本の四辺に押し寄せており、中でもロシアの極東経略はシベリア大陸を越えて樺太・千島を圧し、英仏の東洋進出はインド周辺より清国に伸び、米国また清国の市場を目指して西太平洋に進出して来た。-略-」

キリスト教主義の同志社に入学。下「」引用。

「同志社は一八七五年(明治八年)の開校というから、当時は創立からまだ一年くらいに過ぎなかった。何事も整頓ができていなかった上に、全く米国の学校という形であり、キリスト教主義であり、日曜の゛説教、授業開始前全校生徒の祈祷、講和聴聞、各級授業開始前の祈祷、食事前の祈祷、金曜夜の祈祷会等、宗教に関連した勤めがすこぶる多かった。それに食堂の食物ときては、日本人の食性など全く無視した意外なもにので、生徒たちを困らせていたという。また当時の同志社には熊本洋学校の廃校とともに移って来た連中が、従来の社生を圧倒する有様で、そのため風采も言語も半ば以上熊本化し、上方他地方からの在校生もそれに引きずられて熊本訛りを模倣するほどであった。こんな空気の中に内田は飛び込んだ。数え年の十二というから、多分最年少者であったろう。-略-」


--満州……。下「」引用。

「当時満洲における日本の出先機関には四つの系統があり、
一、関東軍において治安維持の任に当ると共に、軍特務部を設置し満洲国の指導その他に関する事務を処理し、
二、満洲各地に日本領事官が駐在してその職務の執行に当り、
三、関東州租借地の統治及び鉄道附属地の警務は関東庁にこれに当り、
四、満鉄附属の土木、衛生、教育等の行政事務は満鉄会社がこれに当っている、
との状態であった。」


【goo wikipedia】では、こんな文章が書かれてある。下「」引用。

「昭和7年(1932年)8月25日、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)し、焦土外交として物議を醸した。」

焦土にしてくれたんですね。









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