磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑

2008年10月24日 | 読書日記など
『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』
   「全国在日朝鮮人教育研究協議会」有志、
     「ピカ資料研究所」・編/
        「碑の会」(全朝教有志・ピカ研)1989年

公園内に『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』がなかったころ、努力された人たちがいました……。



「◇ はじめに」豊永恵三郎・著。下「」引用。

「一九八三年七月二十八日~三十日まで広島でアジア文学者ヒロシマ会議が開催された。私は発起人の一人として参加し、二十九日司会した分科会の中で、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」のことが問題化し、金秉斗 氏を中心とする在日朝鮮人文学者グループから「(前略)ご承知のように、広島平和公園の原爆死没者慰霊碑には、二十二万人の日本人被爆者が眠っております。私たちはここに眠る二十二万余の被爆者の冥福を心からお祈りいたします。しかしながらこの平和公園には朝鮮人被爆者の慰霊碑は見当りません。この事実をどう考えたらいいのでしょうか?(後略)」というアピールが出された。すぐに広島市長に抗議しようという提案も出たが、私はもう少し事実関係を調べてからにしようといい、この会は終わった。-略-
 また、被爆死没者慰霊碑の過去帳には被爆者が死亡した際、その遺族が本名(朝鮮・韓国名)の記載を申請すれば認めるという。また、平和公園内の原爆供養塔には、朝鮮・韓国人の遺骨も納められている。無名の遺骨が大多数であるが、一部判明している氏名による日本人名であっても朝鮮・韓国人と推察できるものも含まれている。しかし、朝鮮・韓国人だけを追悼するものは皆無である。これらの事実に出くわしたのが私の韓国人原爆犠牲者慰霊碑への関心を持ち始めであった。
 一九八六年九月に韓国のシナリオライターで在韓被爆者問題に関心を持っている朴秀馥さん(「被爆韓国人」の編者の一人)が来広し、私はこの韓国人原爆犠牲者慰霊碑を案内した。本川橋の上で、急にたちどまったので、振り向くと、目から涙が溢れていた。二言三言いったようだが、私には聞き取れなかった。帰国後、次のような手紙がきた。
「韓国人慰霊塔を移さなければ、広島の印象に重大事であると思われますが、所感はどうでしょうか。これは、あなを真心の友として、個人的な所感ですけど、私には、なぜか日本の象徴を見たイヤな悲しいことでした、。」(原文のまま)この朴さんの言葉に、まだ私は答えを出していない。
 この「碑」は、平和公園内に移設すべきだと私は考えている。-略-日本人の手で、被爆朝鮮・韓国人追悼の碑を建設することである。長崎では実現しているのだから、広島でもやらなければならないと思っている。-略-」

ハングル学会理事ソウル大学教授 韓甲洙も文章をよせている。下「」引用。

「平和を愛し、侵略と殺戮を憎む人類は、ここにおまつり申し上げた霊の犠牲を深く悲しみながら、永遠なる御冥福を喪心からお祈り申し上げますでしょう。また、韓国民の熱い愛がいつまでも多くの霊とともにあることでしょう。」

「◇「碑」建立回想記」張泰煕・著。下「」引用。

「解放直後から、「我々は被爆しても、なんとか生き残ったし、祖国へ帰るあてはないし、お互いに慰安しようじゃないか」ということで、約四十人くらいの人が集まっていた。-略-「韓国人が被爆直後も、こけだけ死んでいるのだから、川原で気のきいた石を拾って来てでも、慰霊碑を作るべきではないか。-略-」

朝日新聞(1986・12.8)、読者(京都在住)の投書で碑が公園内にないのは、「民族差別」と書かれてありました。

--1989年7月27日中国新聞の記事が裏表の裏に添付。下「」引用。

「慰霊碑めぐる動き詳細に 資料・文献を体系化し出版
--教師有志とピカ資料研
 広島市平和祈念講演の対岸にある韓国人原爆犠牲物慰霊碑(中区堺町一丁目)の建立経緯や韓国・朝鮮人被爆者問題のデータなどをまとめた「資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が二十六日、全国在日朝鮮人教育研究協議会・広島の有志教師と、原爆被災資料の調査を進めている「ピカ資料研究所」(田原幻吉代表)でつくる「碑の会」から自費出版された。-略-」









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