磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ユネスコ世界遺産 原爆ドーム 21世紀への証人

2006年05月20日 | 読書日記など
『ユネスコ世界遺産 原爆ドーム
    21世紀への証人』
      中国新聞社(編)/中国新聞社1997年

中国新聞から出版されている本は、
この本もそうですが、しっかりしたよい本です。



原爆ドームの最初はウィーンが原点。下「」引用。

「「セセッション」とは、別名「分離派」とも呼ばれ、十九世紀にそれまで正統である歴史主義の様式からの離脱を試みた、ウィーンの革新的な建築家たちが産み落としたスタイルのことである。その特徴は正方形や格子模様を主とする幾何学的形態を使い、またグラフィック・デザインのようにあえて平板な壁面処理をすることにあった。」




やはり、「原爆ドーム」と誰がつけたかは
わからないという。
昭和二十年代初めにそう言われていたという。

保存かどうかのアンケートを中国新聞がしている。
1950年2月21日に、その結果が報じられた。
「望む」62%。「取り払いたい」35%。

1951年8月6日の広島県知事、
広島市市長、広島大学長の対談では、
「残すべきではない」と話していたという。

保存のきっかけは女子高生の日記からだという。
平塚町で被爆し、急性白血病で闘病中の
祗園高校二年楮山(かじまや)ヒロ子さん。同。
「「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆は後世にうったえてくれるだろう」
60年8月6日--楮山さんの日記から」

それを知った「折鶴の会」が、署名と
募金活動をはじめたそうです。

そして、浜井市長などの意見もかわったという。同。

「浜井市長は後に「おとなたちが、つまらないことで論議しているときに、「あの子たち」は、一生懸命に自分たちでできるドーム募金をしていた。原爆ドームはどうしても保存しなければいけないと、私の心を大きく動かしたのは、あの子たちの真剣な動きだった」と、「折鶴の会」の活動が方針転換に影響を与えたことを明かしている。」

サルトルも意見を陳べています。同。

「この廃墟は、あの殺りくが、決して二度と起こらないために、みんなが生き、かつ戦うわれわれの意思のあかしである」66年10月10日原爆ドームを訪れてのメッセージ」






1987年度に再び、保存工事を必要とすると報告があり、
募金活動がはじまる。同。

「百万都市・広島市にとって二億円を予算化することは難しくないが、募金には平和運動を広げるという一面もある」(八九年一月十日付中国新聞)」

二億円のところが、四億円集まったという。

世界遺産については、最初、文化庁には
「門前払い」されたという。

世界遺産登録のさい、
「米国は不支持、中国は賛否留保」したという。同。

 国内の戦争胃酸の登録は初めて。人間の過ちの歴史を伝える「負の遺産」で、第二次世界大戦関係ではポーランドの「アウシュビッツ強制連行収容所」に次いで二番目。被爆地の記念碑は、人類共通の「平和のシンボル」として認められた。
 だが、文化庁によると、「原爆ドーム」の登録をめぐって米国、中国が不支持や賛否を留保し、歴史観の違いも浮き彫りになった。
 審議の過程で、中国は第二次大戦での日本の加害責任に触れ、「われわれは今回の決定から外れる」と発言。「戦争関連施設は遺産リストに含めるべきではない」と不支持を表明していた米国は審議後、「原爆ドームの世界遺産登録に関する本日の決定については参加しない」と声明を発表した。両国の姿勢は、九五年の米スミソニアン航空宇宙博物館で計画中止に追い込まれた原爆展を思い起こさせる。世界遺産委員会の二十一カ国のうち、この二カ国以外は発言がなく、「戦争の遺産ではなく、平和のモニュメントに」と呼び掛けた日本の主張が受け入れられた。
 被爆の惨禍を刻む見ニュメントの世界遺産化に、ヒロシマは「長年の願いが通じた」と喜び、同時に「世界史の証人」となった責任の重さをかみしめた。」

原爆ドームの意味を岡本三夫は要点をあげているという。
1 原爆被災したヒロシマの象徴
2 米国の戦争犯罪の象徴
3 日本の侵略戦争の象徴
4 核戦争反対と核兵器廃絶の決意の象徴
5 ヒバクシャの苦しみの象徴
6 戦争による破壊一般の象徴
7 世界平和を希求する祈念の象徴






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