『溥儀の忠臣・工藤忠-忘れられた日本人の満洲国-』
山田勝芳・著/朝日新聞出版2010年
人間的なつながりを感じられることはほとんどなかった……。
何が忠義なのか? とってつけたようなものが「忠」なのだろうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/71/5343e02ab082c2889c46b4600efc58c1.jpg)
表紙写真 満州国内廷の庭で虎の剥製に跨がる溥儀と工藤。
工藤忠……。下「」引用。
「工藤の名前「忠」の字は、ラストエンペラー溥儀が与えたものである。工藤忠は、満洲国の執政・皇帝となった溥儀の侍衛長(「侍衛官長」「侍衛処長」の略称。侍従・護衛を任務とする侍衛官の長)として仕え、溥儀の二度の訪日にも随行したこともあって、敗戦前の日本では比較的よく知られていた。-略-」
1882年12月10日、青森県の小幡村に生まれる。
出会い。下「」引用。
「要するに、升充の手紙を渡す目的で北京に行った一九一七年七月が、工藤が溥儀に会った最初であった。工藤三四歳、溥儀一一歳、運命の出会いであった。」
吉田茂が阻止。下「」引用。
「加藤高明時代の一九二五年二月中に、溥儀が日本に行く話が出た。日本郵船に一等船室の予約をしていたが、日本政府とりわけ天津総領事の吉田茂によって阻止された。吉田は、日本郵船に、溥儀に当面船がないと断らせたのである。溥儀が日本に来ることは極めて複雑な国際問題を引き起こすことは必至であったから、国際協調路線をとっていた幣原喜重郎外相が率いる外務省としては阻止しなければならなかったのである。さらに訪日の話は一九二七年にも出るが、これについて後述する。」
1927年に王国維が北京の頤和園(いわえん)の昆明池で入水自殺。
もくじ
工藤を知っていた。下「」引用。
「前述のように、首相兼外相の田中も、陸相の白川も、そしてこの森も工藤を知っていた。」
甘粕正彦が出迎える。下「」引用。
「溥儀一行は甘粕正彦が出迎えた営口に上陸して、満鉄経営の湯崗子(とうこうし)温泉(現在の遼寧省鞍山市の湯崗子駅の東)に行きしばらく滞在する。宿は前面に池がある二階建ての対翠閣(たいすいかく)である。溥儀一行はここで軟禁状態に置かれた。」
山岡鉄舟と工藤。下「」引用。
「溥儀は明治天皇についていろいろいと知っていたようであり、この事実を踏まえて、工藤は軍人ではないというが、明治天皇の侍従だった剣道の達人山岡と、同じく剣道に「練達」した工藤とではどこが違うのか、ということを言外に示したのである。実際、鉄舟と工藤はともに「至誠」の人であり、よく似ていた。-略-」
考慮しなければならなかった。下「」引用。
「溥儀も工藤も、軍部の強い反対を考慮せざるをえなかった。その妥協の産物が、工藤の侍従武官職を辞めさせて、警衛官に異動させ、事実上の侍衛処長を兼任させるという措置であった。-略-」
虎=日本。下「」引用。
「溥儀が虎の剥製に跨るのを好んだのは、龍(溥儀)が虎(日本)を御すのだ、という彼の胸底の顕れだったのかもしれない。」
北京計画。下「」引用。
「これをみれば、一九三九(昭和一四)年当時、汪兆銘政権樹立への準備がなされていても、日満支連邦や溥儀を中国皇帝にする案などがさまざまに取り沙汰されていて、工藤の溥儀を北京に移すという案にも一定の支持基盤があったみてよい。工藤自身は北京を移して溥儀の立場を強化をすることと、かつて長年復辟派勢力の扶植に努めてきた甘粛を反共産党にまとめて、日本軍を支援して共産党軍を駆逐し、溥儀の新政権樹立を容易になるようにと考えたのであろう。-略-」
「マンジュ」から満州。下「」引用。
「中見立夫が「満洲」とは満洲五の漢字音訳表記で、ヌルハチが自らの集団を「マンジュ」として、国名を「マクジュ・グルン」と呼んだことに起因していること、日本では一八世紀末から一九世紀初めに地名としての「満洲」が使われ、これがヨーロッパ諸国にも広がる、と簡潔に説明している通りである(中見「歴史の中の“満洲”像」)、宮脇淳子は独自の観点を加えてやや詳細に述べている。
宮脇によると、ジュシェン(女直・女真)という民族の一部族長ヌルハチが一六一六年に後金国を建てたが、これより前にヌルハチの勢力圏が「マンジュ・グルン」と呼ばれており、この「マンジュ」を漢字に移したのが「満洲」である。「マンジュ」が「文殊菩薩」の原語の「マンジュリシュリ」から来ているという説もあるが、それは根拠がない。-略-」
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山田勝芳・著/朝日新聞出版2010年
人間的なつながりを感じられることはほとんどなかった……。
何が忠義なのか? とってつけたようなものが「忠」なのだろうか?
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表紙写真 満州国内廷の庭で虎の剥製に跨がる溥儀と工藤。
工藤忠……。下「」引用。
「工藤の名前「忠」の字は、ラストエンペラー溥儀が与えたものである。工藤忠は、満洲国の執政・皇帝となった溥儀の侍衛長(「侍衛官長」「侍衛処長」の略称。侍従・護衛を任務とする侍衛官の長)として仕え、溥儀の二度の訪日にも随行したこともあって、敗戦前の日本では比較的よく知られていた。-略-」
1882年12月10日、青森県の小幡村に生まれる。
出会い。下「」引用。
「要するに、升充の手紙を渡す目的で北京に行った一九一七年七月が、工藤が溥儀に会った最初であった。工藤三四歳、溥儀一一歳、運命の出会いであった。」
吉田茂が阻止。下「」引用。
「加藤高明時代の一九二五年二月中に、溥儀が日本に行く話が出た。日本郵船に一等船室の予約をしていたが、日本政府とりわけ天津総領事の吉田茂によって阻止された。吉田は、日本郵船に、溥儀に当面船がないと断らせたのである。溥儀が日本に来ることは極めて複雑な国際問題を引き起こすことは必至であったから、国際協調路線をとっていた幣原喜重郎外相が率いる外務省としては阻止しなければならなかったのである。さらに訪日の話は一九二七年にも出るが、これについて後述する。」
1927年に王国維が北京の頤和園(いわえん)の昆明池で入水自殺。
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工藤を知っていた。下「」引用。
「前述のように、首相兼外相の田中も、陸相の白川も、そしてこの森も工藤を知っていた。」
甘粕正彦が出迎える。下「」引用。
「溥儀一行は甘粕正彦が出迎えた営口に上陸して、満鉄経営の湯崗子(とうこうし)温泉(現在の遼寧省鞍山市の湯崗子駅の東)に行きしばらく滞在する。宿は前面に池がある二階建ての対翠閣(たいすいかく)である。溥儀一行はここで軟禁状態に置かれた。」
山岡鉄舟と工藤。下「」引用。
「溥儀は明治天皇についていろいろいと知っていたようであり、この事実を踏まえて、工藤は軍人ではないというが、明治天皇の侍従だった剣道の達人山岡と、同じく剣道に「練達」した工藤とではどこが違うのか、ということを言外に示したのである。実際、鉄舟と工藤はともに「至誠」の人であり、よく似ていた。-略-」
考慮しなければならなかった。下「」引用。
「溥儀も工藤も、軍部の強い反対を考慮せざるをえなかった。その妥協の産物が、工藤の侍従武官職を辞めさせて、警衛官に異動させ、事実上の侍衛処長を兼任させるという措置であった。-略-」
虎=日本。下「」引用。
「溥儀が虎の剥製に跨るのを好んだのは、龍(溥儀)が虎(日本)を御すのだ、という彼の胸底の顕れだったのかもしれない。」
北京計画。下「」引用。
「これをみれば、一九三九(昭和一四)年当時、汪兆銘政権樹立への準備がなされていても、日満支連邦や溥儀を中国皇帝にする案などがさまざまに取り沙汰されていて、工藤の溥儀を北京に移すという案にも一定の支持基盤があったみてよい。工藤自身は北京を移して溥儀の立場を強化をすることと、かつて長年復辟派勢力の扶植に努めてきた甘粛を反共産党にまとめて、日本軍を支援して共産党軍を駆逐し、溥儀の新政権樹立を容易になるようにと考えたのであろう。-略-」
「マンジュ」から満州。下「」引用。
「中見立夫が「満洲」とは満洲五の漢字音訳表記で、ヌルハチが自らの集団を「マンジュ」として、国名を「マクジュ・グルン」と呼んだことに起因していること、日本では一八世紀末から一九世紀初めに地名としての「満洲」が使われ、これがヨーロッパ諸国にも広がる、と簡潔に説明している通りである(中見「歴史の中の“満洲”像」)、宮脇淳子は独自の観点を加えてやや詳細に述べている。
宮脇によると、ジュシェン(女直・女真)という民族の一部族長ヌルハチが一六一六年に後金国を建てたが、これより前にヌルハチの勢力圏が「マンジュ・グルン」と呼ばれており、この「マンジュ」を漢字に移したのが「満洲」である。「マンジュ」が「文殊菩薩」の原語の「マンジュリシュリ」から来ているという説もあるが、それは根拠がない。-略-」
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