『史伝坂本龍馬 増補改訂版 学研M文庫 や-4-3』
山村竜也・著/学研パブリッシング2009年
本書は2003年に刊行された『史伝 坂本龍馬』に加筆したものだという。
次々に生誕のことが書かれているという。下「」引用。
「-略-これがみな龍馬という名の命名の由来とされていて、なかなか壮観といっていい。さすがに龍馬ほどの英雄ともなると、話が次々に脚色されて大きくなっていくようだ。
もちろん、夢の話であるから、母親がどんな夢をみたのかは、われわれの知るところではないが、父親まで登場したり、龍のほかに馬があらわれたのするのは、やはり行き過ぎのようにも思える。ここは、初出である『汗地千里駒』の記述あたりが事実に近いのではないか。」
そうなんだろうか?
↓はそうだろう……。
郷士坂本家=商人× 下「」引用。
「よく龍馬は、武士ではなく商人の出身だったといわれることがあるが、それは正しくない。
確かに坂本家の本家は、才谷屋(さいだにや)という城下屈指の豪商だったが、龍馬の曾祖父の時代に「郷士」と称する武士の格を手に入れていた。それで分家して起こした家が郷士坂本家゛てあり、本家の才谷屋とはあくまでも別物だった。
だから、龍馬は商人の気風の残る家に育ったとはいえ、生まれたときから武士であったことには違いないのである。」
溝淵広之丞が象山塾に誘ったという。下「」引用。
「興味深いのは、嘉永五年(一八五二)の入門者として溝淵広之丞の名がみられることか。溝淵は、一般に、翌嘉永六年(一八五三)に龍馬とともに故郷を出発し、江戸で剣術修行を行ったといわれる人物である。
しかし、ここに名があることから考えて、溝淵は実際には龍馬よりも先に江戸へ出て、単独で砲術修行に励んでいたものと推測される。むしろ、あとから江戸に出た龍馬を、象山塾に誘ったのがこの溝淵であった考えるべきだろう。」
玄武館にも通ったという。下「」引用。
「なお、龍馬の実力を認めた千葉重太郎は、このころ神田お玉が池の玄武館(げんぶかん)、つまり千葉本家の道場にも龍馬を紹介したと伝えられる。すでに北辰一刀流の創始者である千葉周作は没していたが、次男の栄次郎があとを継ぎ、道場は相変わらず隆盛していた。
龍馬が玄武館のほうにも席を置いていたことは、次の記録によっても裏付けられる。『玄武館出席大概』と称するこの名簿は、安政四、五年ごろに玄武館に籍を置いた三百九人の氏名を記したものだ。そのなかから、土佐藩士の部分を抜粋してみよう。-略-」
清河と龍馬は玄武館でともに汗を流した仲であるという。
西郷隆盛の弟・従道は龍馬を見て物騒だといったという。
桂小五郎と会ったのは江戸が初ではないという……。下「」引用。
「龍馬と同時期に江戸で剣術修行をしていたから、小説などでは早くからの知り合いとして描かれることがあるが、実際には、この時点まで二人は面識がない。」
政治研究所ではない海援隊。下「」引用。下「」引用。
「多彩な人材のそろった海援隊のなかにあって、ひとり小谷耕蔵は、佐幕思想を抱いていたことから、同志たちと衝突することが多かった。ついに一同は小谷の除隊を龍馬にせまったが、龍馬はこういって彼らをいさめたという。
「海援隊は政治研究所ではない。航海の実習を目的とするものだ。主義の異同はあえて問わない。隊仲ただ一人の佐幕の士を同化することができなくてどうするか」
これには隊士たちもいい返すこともできず、以後、小谷は龍馬の度量の大きさに一層心服したのだった。」
もくじ
目次
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山村竜也・著/学研パブリッシング2009年
本書は2003年に刊行された『史伝 坂本龍馬』に加筆したものだという。
次々に生誕のことが書かれているという。下「」引用。
「-略-これがみな龍馬という名の命名の由来とされていて、なかなか壮観といっていい。さすがに龍馬ほどの英雄ともなると、話が次々に脚色されて大きくなっていくようだ。
もちろん、夢の話であるから、母親がどんな夢をみたのかは、われわれの知るところではないが、父親まで登場したり、龍のほかに馬があらわれたのするのは、やはり行き過ぎのようにも思える。ここは、初出である『汗地千里駒』の記述あたりが事実に近いのではないか。」
そうなんだろうか?
↓はそうだろう……。
郷士坂本家=商人× 下「」引用。
「よく龍馬は、武士ではなく商人の出身だったといわれることがあるが、それは正しくない。
確かに坂本家の本家は、才谷屋(さいだにや)という城下屈指の豪商だったが、龍馬の曾祖父の時代に「郷士」と称する武士の格を手に入れていた。それで分家して起こした家が郷士坂本家゛てあり、本家の才谷屋とはあくまでも別物だった。
だから、龍馬は商人の気風の残る家に育ったとはいえ、生まれたときから武士であったことには違いないのである。」
溝淵広之丞が象山塾に誘ったという。下「」引用。
「興味深いのは、嘉永五年(一八五二)の入門者として溝淵広之丞の名がみられることか。溝淵は、一般に、翌嘉永六年(一八五三)に龍馬とともに故郷を出発し、江戸で剣術修行を行ったといわれる人物である。
しかし、ここに名があることから考えて、溝淵は実際には龍馬よりも先に江戸へ出て、単独で砲術修行に励んでいたものと推測される。むしろ、あとから江戸に出た龍馬を、象山塾に誘ったのがこの溝淵であった考えるべきだろう。」
玄武館にも通ったという。下「」引用。
「なお、龍馬の実力を認めた千葉重太郎は、このころ神田お玉が池の玄武館(げんぶかん)、つまり千葉本家の道場にも龍馬を紹介したと伝えられる。すでに北辰一刀流の創始者である千葉周作は没していたが、次男の栄次郎があとを継ぎ、道場は相変わらず隆盛していた。
龍馬が玄武館のほうにも席を置いていたことは、次の記録によっても裏付けられる。『玄武館出席大概』と称するこの名簿は、安政四、五年ごろに玄武館に籍を置いた三百九人の氏名を記したものだ。そのなかから、土佐藩士の部分を抜粋してみよう。-略-」
清河と龍馬は玄武館でともに汗を流した仲であるという。
西郷隆盛の弟・従道は龍馬を見て物騒だといったという。
桂小五郎と会ったのは江戸が初ではないという……。下「」引用。
「龍馬と同時期に江戸で剣術修行をしていたから、小説などでは早くからの知り合いとして描かれることがあるが、実際には、この時点まで二人は面識がない。」
政治研究所ではない海援隊。下「」引用。下「」引用。
「多彩な人材のそろった海援隊のなかにあって、ひとり小谷耕蔵は、佐幕思想を抱いていたことから、同志たちと衝突することが多かった。ついに一同は小谷の除隊を龍馬にせまったが、龍馬はこういって彼らをいさめたという。
「海援隊は政治研究所ではない。航海の実習を目的とするものだ。主義の異同はあえて問わない。隊仲ただ一人の佐幕の士を同化することができなくてどうするか」
これには隊士たちもいい返すこともできず、以後、小谷は龍馬の度量の大きさに一層心服したのだった。」
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