『戦争を知らない世代へ2 広島編 広島のこころ-二十九年』
創価学会青年部反戦出版委員会・編/第三文明社1974年
教会へ通っていた人が、渡米して治療したことも書かれてあった。
もくじ
護憲勢力……。下「」引用。
「-略-各地における憲法研究会の発足、それを核とした憲法講座を中心とする憲法の意識啓蒙の活動、護憲週間の設置と各地における護憲集会の開催、生活憲章作成運動を通しての憲法の実質化運動等は、地道な護憲運動として大きな実を結びつつある。特に「靖国神社法案」「小選挙区制」の問題等を通しての抗議活動は、今までにない本格的な護憲勢力の存在を印象づけた、といえよう。」
「不眠不休で救助活動を」をしたという。下「」引用。
「-略-私は、当時、宇品の船舶司令部の副支部に勤務していた。毎朝八時から朝礼があり、東方逢拝訓示にひきつづき、本土決戦に供えて軍刀術の訓練が十五分行なわれるのが恒例であるが、当日は都合で中止、事務室に戻っていざ仕事にかかろうとした瞬間、ピカッとものすごい光が目を射たと同時に、天も裂けんがりの大爆発音とともに、全身がコン棒で打ちのめされたような衝撃を受けた。-略-部内でも若干の死傷者が出たもようである。やがて一時間くらい後には、焼けただけれた被服と黒く汚れた血に染まった半裸、全裸同様の負傷者が続々と逃げて着て構内を埋めつくした。午後までには少なくとも二千名を越したと思う。
軍医部は総動員で応急手当てを施し、輸送部隊の協力のもとに、これら患者を金輪島、似島に移送し大わらわであった。-略-外傷もない同僚たち、部内の人びとが次から次へと倒れていった。次は俺の番かと秘かに覚悟は決めていた。ふと頭に手を当て髪の毛を引張ってみるともろに抜けるではないか!
そういえば、永い間不眠不休の闘いの疲れと炎天下の救援活動も加わって、いよいよ人生の終末がきたのではないかと複雑な感情が交錯したが、じっと我慢し続けた。」
夫は生き残ったことがうれしなかったのだろう……。下「」引用。
「突然ピカーッと異様な光に私はハッとして思わず廊下へ飛び出しました。瞬間子供のことを思い出し引っ返し、子供を抱え転がるように飛び出しました。建物は全部倒れていました。その時、一瞬子供のことを思い出すのが遅かったら、私たち親子は建物の下敷きにらなり死んでいたことと思います。後日、主人より「お前の母性愛が今少し弱かったら、二人共あの世いきだったろう」とたびたびいわれたものです。」
「死んだ子を主人と二人で抱いてやる」という文章もありました。
「原爆乙女としてアメリカへ」 下「」引用。
「そうしている時に友達の紹介で、教会に行くようになったり、外人と牧師さんのお世話でアメリカに治療を受けに行きました。十三カ月の渡米生活で、今まで自分一人苦しんでいたことがバカらしくなりました。世の中には、私と同じように苦しんでいる人がたくさんいることを知りました。アメリカ人でも主人を子供を戦争で亡くして困った生活をしておられる人を知りました。-略-」
ケロイドのある人は、「ゲンバク」というあだ名をつけられたという。
--……少年だったころ、よく泣いたという。
ABCCのことも書かれてありました。下「」引用。
「母はABCCで、毎月一回健康診断を受けていたのである。胃癌で手遅れとわかった二カ月前に、ABCCで健康診断をうけ「異常なし」の診断であった。ABCCに訴えたところただすまないという言葉だけ。人間の生命をどんなに考えているのか。絶対二度と戦争をおこしてはならない。私も小学生の頃よくABCCに行かされたものである。前の晩は眠れないほどいやだった。」
今でも、検査でひっかからない癌もあるそうです……。
index
科学は万能ではありませんね……。
index
index
創価学会青年部反戦出版委員会・編/第三文明社1974年
教会へ通っていた人が、渡米して治療したことも書かれてあった。
もくじ
護憲勢力……。下「」引用。
「-略-各地における憲法研究会の発足、それを核とした憲法講座を中心とする憲法の意識啓蒙の活動、護憲週間の設置と各地における護憲集会の開催、生活憲章作成運動を通しての憲法の実質化運動等は、地道な護憲運動として大きな実を結びつつある。特に「靖国神社法案」「小選挙区制」の問題等を通しての抗議活動は、今までにない本格的な護憲勢力の存在を印象づけた、といえよう。」
「不眠不休で救助活動を」をしたという。下「」引用。
「-略-私は、当時、宇品の船舶司令部の副支部に勤務していた。毎朝八時から朝礼があり、東方逢拝訓示にひきつづき、本土決戦に供えて軍刀術の訓練が十五分行なわれるのが恒例であるが、当日は都合で中止、事務室に戻っていざ仕事にかかろうとした瞬間、ピカッとものすごい光が目を射たと同時に、天も裂けんがりの大爆発音とともに、全身がコン棒で打ちのめされたような衝撃を受けた。-略-部内でも若干の死傷者が出たもようである。やがて一時間くらい後には、焼けただけれた被服と黒く汚れた血に染まった半裸、全裸同様の負傷者が続々と逃げて着て構内を埋めつくした。午後までには少なくとも二千名を越したと思う。
軍医部は総動員で応急手当てを施し、輸送部隊の協力のもとに、これら患者を金輪島、似島に移送し大わらわであった。-略-外傷もない同僚たち、部内の人びとが次から次へと倒れていった。次は俺の番かと秘かに覚悟は決めていた。ふと頭に手を当て髪の毛を引張ってみるともろに抜けるではないか!
そういえば、永い間不眠不休の闘いの疲れと炎天下の救援活動も加わって、いよいよ人生の終末がきたのではないかと複雑な感情が交錯したが、じっと我慢し続けた。」
夫は生き残ったことがうれしなかったのだろう……。下「」引用。
「突然ピカーッと異様な光に私はハッとして思わず廊下へ飛び出しました。瞬間子供のことを思い出し引っ返し、子供を抱え転がるように飛び出しました。建物は全部倒れていました。その時、一瞬子供のことを思い出すのが遅かったら、私たち親子は建物の下敷きにらなり死んでいたことと思います。後日、主人より「お前の母性愛が今少し弱かったら、二人共あの世いきだったろう」とたびたびいわれたものです。」
「死んだ子を主人と二人で抱いてやる」という文章もありました。
「原爆乙女としてアメリカへ」 下「」引用。
「そうしている時に友達の紹介で、教会に行くようになったり、外人と牧師さんのお世話でアメリカに治療を受けに行きました。十三カ月の渡米生活で、今まで自分一人苦しんでいたことがバカらしくなりました。世の中には、私と同じように苦しんでいる人がたくさんいることを知りました。アメリカ人でも主人を子供を戦争で亡くして困った生活をしておられる人を知りました。-略-」
ケロイドのある人は、「ゲンバク」というあだ名をつけられたという。
--……少年だったころ、よく泣いたという。
ABCCのことも書かれてありました。下「」引用。
「母はABCCで、毎月一回健康診断を受けていたのである。胃癌で手遅れとわかった二カ月前に、ABCCで健康診断をうけ「異常なし」の診断であった。ABCCに訴えたところただすまないという言葉だけ。人間の生命をどんなに考えているのか。絶対二度と戦争をおこしてはならない。私も小学生の頃よくABCCに行かされたものである。前の晩は眠れないほどいやだった。」
今でも、検査でひっかからない癌もあるそうです……。
index
科学は万能ではありませんね……。
index
index