磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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父から子に語る2 ゲンバクとゲンパツ-核時代を考え、生きる-

2009年04月07日 | 読書日記など
『父から子に語る2 ゲンバクとゲンパツ-核時代を考え、生きる-』
   淡路忠男・著/みずち書房1990年

著者の父は、入市被爆者で、その子どもである著者は苦労されたようだ……。



「はじめに--核から世界をながめる」下「」引用。

「-略-わたしの父はたまたま肺結核の疑いがあり長崎県諫早市にある海軍病院に入院していた。
 被爆した人びとは貨物列車にのせられて、被爆地点から約二○キロの距離にある海軍病院にも運ばれてきた。なかには衣服がまだくすぶっている人もいた。医師や看護婦をてつだって入院中のわたしの乳も被爆者の看病ではたらいた。それぐらい多くの負傷者がおり、しかも負傷者はつぎからつぎへと死んでいき、死体は多すぎて棺桶が間に合わず、荷馬車で運びださねばならないほどだった。
 翌日になって、長崎市の方向からの風にのって灰がとんでた。紙屋である父は、入隊前に、県庁とか警察にずいぶんたくさんの事務用紙を納めている。引きのつよい和紙に赤い罫が印刷してあるやつだ。病院の空や庭にかるがるととんでいる灰は、てのひらに受けてよく見るとまぎれもなく自分が印刷して納入した美濃紙の罫紙だった。」

そして、終戦……。下「」引用。

「 敗戦直後に帰宅を許された父は、爆心地の浦上をとおって長崎市内の自宅に帰り、翌日もおなじコースをとおって熊本に疎開していたわたしたち家族のところへやってきた。そのあいだに、町内の警防団の人たちといっしよに被爆地の死体をあつめて焼いたり、焼け落ちた家いえの間に道を切りだしたりする仕事ではたらいた。
 やがて父は、吐き気やめまいがしたり、食欲がなくからだがだるくなる症状に悩むようになる。顔が黄いろくなっても、家族を養うため無理やりがんばっていたけれども、とうとう入院してはたらくこともできなくなった。一九六○年のことだ。髪が抜ける。歯茎から血がでる。息がもうれつに臭くなる。爪が貝がらのようにもろく割れる。意識がだんだん濁っていき、錯乱状態になり、何日間もこんこんと眠りこむ。原爆の二次放射能障害ではないか、と医師はうたがい、彼のすすめで手続をとり、このときはじめて父は特別被爆者手帳を交付され、被爆者と認定された。敗戦からすでに一五年たっていた。
 父は一九八二年に、全身をガンに冒され死んだ。七一歳の生涯の半分以上を原爆のため苦しみぬいたことになる。一家の大黒柱が病気がちのため、家族も苦労した。七人兄弟の長男であるわたしは、小学校五年生のときから新聞配達をやって生活費を稼いだ。
 戦争はいやだ。とりわけ核戦争は悲惨きわまりない。それを訴えるため、アメリカ建国二○○周年に行なわれたアメリカ大陸横断平和行進にも参加した。-略-」

「もうかる核産業」 下「」引用。

「核実権に要する費用は実権の規模によってちがうけれども、イギリスの『サニティ』誌(一九八八年九月号)によれば、一回あたり七○○万ポンドから四○○○万ポンド、約一六億円から九○億円かかる。核兵器の実験、製造、管理や監視のシステムなどにかかる費用は、世界中で約一五○兆円とみられる。これだけの巨額の金がうごく以上、その予算でうるおうところもちゃんとある。-略-」

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実験ができない原発事故……。下「」引用。

「原発では、自己が起きるかどうかを試してみるような実験なんてできない。それによってもたらされるものが、あまりにも危険だからだ。スケールをうんと小さくした実験炉か、せいぜいシミュレーションの捕捉みたいな実験しかやれない。もしも、実物大のスケールだと、それはすべてか無かの賭であり、実験とはいえない。-略-」







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