磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

医師たちのヒロシマ 原爆災害の記録

2006年08月19日 | 読書日記など
『医師たちのヒロシマ 原爆災害の記録』
  核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編/
     機関紙共同出版1991年

京都大学たちの医師や教授などが、
広島の被爆について研究されてきた歴史などが
書かれてありました。



仁科教授が原爆の研究をされていたのは、
知っていましたが、京大でもそれを
していた人がいるのは知りませんでした。

京都大学にも広島の被爆災害の調査するように命令がおりたようです。下「」引用。

「京都伏見に司令部を置く陸軍第十六師団から荒勝教授が連絡が入った。大本営が、荒勝研究室に至急広島の現地調査をしてほしいと依頼しているという。同じ依頼は、医学部病理学教室の杉山繁輝教授にたいして届けられた。杉山教授の専門は血液学だったが、教室では島本光顕(みつあき)講師を中心に、まだ初歩的ながら、放射線の動物への影響が研究されていたのである。
 両教室では、さっそく調査団が編成された。荒勝研からは、荒勝教授のほかに木村毅一(きいち)教授と清水栄講師が、杉山教室からは杉山教授、島本講師、それに木村雅(まさし)助手が広島に向かうことになった。また海軍航空技術厰(しょう)から荒勝研に派遣されていた上田技術大尉と石田技師、それに十六師団兵器部の池田中尉も調査団に加わって、合計十名の人々が九日の夜京都駅を出発した。」

しかし、読んでいけば、京都大学だけでなく、阪大などにも命令はあったようです。

科学者といえども、やはり人間。
広島の惨状には驚きをかくせなかったようだ。
そして、次は京都という噂で、心配だったようだ。

枕崎台風により十一人の京都大学研究者は亡くなられたそうです。
生き残られた方の証言も書かれてありました。

10月11日、京都大学のシンボルである時計台下の本部大講堂で、原爆災害綜合研究調査班遭遇者の大学葬が行われたという。

行政にまかせてはおられないといって、広島の医師が病院を開設されたそうです。同。

「矢賀病院(矢賀国民学校内)の松阪義正医師は、自らも療養を要するほどの被爆者であったにもかかわらず、持ち前の行動力で敷地を借り受け、陸軍病院江波分院の建物を移転改装して日本医療団広島厚生病院を開設した。今の県立広島病院である。」

行政は何をしたのか?
この本にもさほど書かれていません。
京大自信も研究であって治療はさほどしなかったのか、
どうされたのか、あまり理解できなかった。

官僚主義的だったのかもしれないと思わせる記述がいくつかありました。
その中でも、人間的に被爆者とかかわろうとされた方もおられたようです。

占領時代となり、研究も占領されることになります。
プレスコードをもひかれます。

狡猾といえるアメリカ。
英語で論文をだし検閲をしてから発表できるような、そんなことを云うが、一つもレポートは返されず、本国に持って帰ったという。

28年後に返還されたというが、たぷん盗人以下ということを彼らは理解していないだろう。

アメリカにとっては正義だと、
彼らは主張することでしょう。

この本でも、アメリカ軍が赤十字社のジュノー博士などを妨害したことが書かれてあります。



目 次







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。