磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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地下壕に埋もれた朝鮮人強制労働

2007年12月19日 | 読書日記など
『地下壕に埋もれた朝鮮人強制労働』
    広島の強制連行を調査する会・編/明石書店1992年

地下壕を熱心に追究されている本といっていいかと思います。予想外に大きな施設だったと思えました……。これほどの物をつくるのに、当時は大量の人海戦術が必要だったと思います。環境の悪い、悪条件の労働条件だったろうと思われます……。そこで働かされたのは、おそらく朝鮮人たちだったろうと……。



地下壕がなくなるという。下「」引用。

「一九九一年一○月八日午後、下見をする。
 宇品造船所の近くで道路のほとりにセメントで固めた地下壕の入口を発見。そのあたりに七、八個の入口があるのを確かめる。その一部はがけ崩れ防止工事のため壕の入口がはっきりと姿を現している。このまま工事が進めば二度と入れなくなるかもしれない。至急調査する必要がある。」

なかはまるで迷路だったという。

「広島の強制連行を調査する会」が実施した最初の地下壕調査がこの宇品。

宇品の地下壕は地下工場ではなく、陸軍(「暁部隊」)の地下要塞だろうという。

暁部隊のことも書かれてありました。下「」引用。

「『暁部隊』に朝鮮人はいなかった」という話は真実ではなく、「暁部隊」の輸送部隊にはたしかに強制連行された朝鮮人が組み込まれていたことが判明した。それに、兵士や兵器のみでなく、「従軍慰安婦」も戦場に運んでいたのだ。また宇品の陸軍運輸部には、「浜沖仕」などしんどい、危険な仕事に朝鮮人が強制労働させられていた。そして被爆する。
 この宇品にも「廣島」と「ヒロシマ」の姿、すなわち加害と被害の事実が鮮明に浮かび上がってくる。」

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1991年10月31日、NHKで「忘れられた兵士たち・ヒロシマの朝鮮人救援部隊」が放映。朝日新聞の紹介。下「」引用。

「原爆投下直後の広島で、救援活動に尽力した朝鮮半島出身の救援部隊があった。現在の韓国慶尚北道(キヨンサムプクト)の農村から徴兵され、広島市郊外の陸軍中部八八七六部隊に編入された百二十五人の兵士たちは、残留放射能にさらされながら多くの日本人の命を救った。戦後、彼らの存在は忘れ去られ、祖国に帰った後の消息も分からなかった。今春、元部隊長に四六年ぶりに届いた元兵士からの消息で探すことができた。自らの命を放射能にさらしながら日本人の命を救った彼らの活動を追い、現在をたどる」と書かれている。」

その韓国の人たちが広島で救援活動を行なったという。下「」引用。

「八八七六部隊などが、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄のなか九日間昼夜兼行で必死に救援活動を行なった。ところが、大本営の「朝鮮人反乱の恐れ在り、至急送還せよ」(『広島原爆戦災誌』)との命令で、緊急列車を出させ帰国させられることになったという。」

元隊長は病身をおして、証言したという。下「」引用。
 
「「私自身被爆者。その苦しみは痛いほど分かる。被爆直後の惨状のなか、懸命に救助作業に当たってくれた彼らにできることをしてやりたい」(同前「奈良新聞」)と、毎日自宅にある呼吸器で酸素吸入をする病身をおして、元部下と対面し、広島市に原爆手帳取得のためにかけつけられている。そうした中塩氏の人間性は手紙にも読みとることができると思うので、正当に評価していただきたいことをお願いする。」

祗園町には三菱重工業と油谷重工業の地下工場があったという。
丘の上にある祗園中学の下や、イエズス会修道院の丘の下にトンネルが掘られたという。

二葉山に洞窟司令部をつくっていたという、七部通りできていたという。

東洋工業(現マツダ)と地下工場が書かれてありました。下「」引用。

「-略-小型四輪自動車や三輪トラックや銃器などを生産していたが、戦争の激化とともに一九四三(昭和一八)年四月、航空機用発動機部品の大量生産に転じた。」

特攻基地大浦崎(P基地)にも地下施設があったという。



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