磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

写真集 原爆棄民  韓国・朝鮮人 被爆者の証言

2006年07月26日 | 読書日記など
『写真集 原爆棄民
   韓国・朝鮮人 被爆者の証言』
      伊藤孝司(写真・文)/ほるぷ出版1987年

一番、きついと思うのは、
やはり被爆された朝鮮の方たちのことです。



裏表紙にはこう書かれています。下「」引用。

「日本に住む私たちの日常からは戦争を身近に感じる事は困難だ。まして、かつての戦争に人生をもてあそばれ、42年後の今も大きな傷を持って、生きている人々の姿など、目に止まらなくとも不思議ではない。しかし過去の出来事といえども、今の私たちの生活のあり方を問う問題が数多く残されている。42年前、広島・長崎で原爆の炎に焼かれたのは日本人ばかりではなかった。7万人もの朝鮮人をはじめ、中国人、連合国捕虜、帰郷中の日系米人も被爆した。生き残った朝鮮人は、2万3千人が祖国へ帰り、7千人が日本にとどまったと推定される。彼らは強制連行されたり、日本の植民地支配により土地・財産を奪われ生きるために日本に渡らざるを得なかったりした。その結果、被爆し、二重の苦しみを味わうこととなったのだ。」



協和会員というのがあったそうです。下「」引用。

「日本に渡ってきた朝鮮人を、
皇民化政策により日本人に同化させ、
戦争協力を強要し、
思想や行動を監視する、
そのために、協和会がつくられた。
陳祐生さんは、
広島での被爆の証として協和会員章を
大切に持っていた。」

碑があるという。下「」引用。

「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑は、一九七九年八月九日、松山の爆心地公園に、無名の日本人市民たちによって建てられた。碑の裏面には「強制連行および徴用で重労働に従事中被爆した朝鮮人とその家族のために」と刻まれている。」


祖国へ帰られた方もきつい生活が待っていました。下「」引用。

「10月、韓国に引き揚げて故郷に帰る途中、息子が死にました。乳飲み児でしたが、母親がいないので゜、おかゆを飲ませたり、飯を食わせたりしていました。その子を背負い、妻の実家のある慶尚南道(キョンサムナムド)へ行く途中、どこで死んだのかわからなかったんです。私は死んだ子どもを一日中、背負って歩いていたわけです。」

「日本が戦争をしなかったら、こんなにならなくてすんだのです」季貞守(イ・ジョンス)







もくじ

目 次







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。