『偕成社の創作どうわ傑作選
ゆみ子とつばめのおはか』
今西祐行・作/遠藤てるよ・絵/偕成社1978年
メロドラマというものも、作者や監督が、悲しみに溺れて、酔ってしまってはダメだとボクは思うのです。
--もちろん、感情は大切なものだということも忘れてはならないと思います。
他の本ですが、メロドラマ論というのもあるそうです。
ここまで行けば、感情に溺れるということになりかねないか?
美文調で書かれてあるので、特にそう思ってしまう。
自然な感情の流れ……。
そして、テーマとして何をとりあげたかったのか?
それを思うに、いろいろ疑問を持ってしまう作品です。
--「*おわりに」で書かれてあります。下「」引用。
「-略-私は、そんな地獄のなかで、たったひとり死にかけている女の子が、つばめをだいているのをみつけました。少女は、もう口がきけませんでした。なぜ、あの子がつばめをだいていたのだろうと、私はいまもふしぎに思います。私たちは、交替で作業をつづけましたが、練兵場の北にある二葉山(ふたばやま)の松林で休んだとき、そこにとべないつばめがたくさんいました。つぎの作業にでたとき、そのことを話してやろうと少女をさがしましたが、もう少女はみつかりまんでした。」
あの地獄のようなヒロシマにいた著者。
そこで、つばめをだいた少女がいた。
もっと、事実を大切して欲しかった気がボクにはします。
あまりにも、お話の方程式にはまりすぎている気がしました……。
そして、こんな会話はどうなのか? ボクには理解できませんが……。下「」引用。
「おかあさんは、このごろなにかにつけ、すぐに、原ばく原ばくと、原ばくのせいにするのだそうです。
すると、おとうとは、「年のせいですよ。」といって、おかあさんを、がっかりさせるのだそうです。」
本当に原爆のせいでないと言えるのでしょうか?
ボクには言えないと思います……。
放射能障害はめでたし、めでたしとはならないと思います。
今も被爆された人たちは強く訴えられています……。
そして、チェルノブイリによって、人類すべてが、被曝者という人もいますね……。
もくじ
ゆみ子とつばめのおはか』
今西祐行・作/遠藤てるよ・絵/偕成社1978年
メロドラマというものも、作者や監督が、悲しみに溺れて、酔ってしまってはダメだとボクは思うのです。
--もちろん、感情は大切なものだということも忘れてはならないと思います。
他の本ですが、メロドラマ論というのもあるそうです。
ここまで行けば、感情に溺れるということになりかねないか?
美文調で書かれてあるので、特にそう思ってしまう。
自然な感情の流れ……。
そして、テーマとして何をとりあげたかったのか?
それを思うに、いろいろ疑問を持ってしまう作品です。
--「*おわりに」で書かれてあります。下「」引用。
「-略-私は、そんな地獄のなかで、たったひとり死にかけている女の子が、つばめをだいているのをみつけました。少女は、もう口がきけませんでした。なぜ、あの子がつばめをだいていたのだろうと、私はいまもふしぎに思います。私たちは、交替で作業をつづけましたが、練兵場の北にある二葉山(ふたばやま)の松林で休んだとき、そこにとべないつばめがたくさんいました。つぎの作業にでたとき、そのことを話してやろうと少女をさがしましたが、もう少女はみつかりまんでした。」
あの地獄のようなヒロシマにいた著者。
そこで、つばめをだいた少女がいた。
もっと、事実を大切して欲しかった気がボクにはします。
あまりにも、お話の方程式にはまりすぎている気がしました……。
そして、こんな会話はどうなのか? ボクには理解できませんが……。下「」引用。
「おかあさんは、このごろなにかにつけ、すぐに、原ばく原ばくと、原ばくのせいにするのだそうです。
すると、おとうとは、「年のせいですよ。」といって、おかあさんを、がっかりさせるのだそうです。」
本当に原爆のせいでないと言えるのでしょうか?
ボクには言えないと思います……。
放射能障害はめでたし、めでたしとはならないと思います。
今も被爆された人たちは強く訴えられています……。
そして、チェルノブイリによって、人類すべてが、被曝者という人もいますね……。
もくじ