磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前后V

2008年04月02日 | 読書日記など
『原爆前后V』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1971年

三菱には、他では手に入らない薬も、もらえたようです。



--名古屋航空発動機製作所に転勤していて、長崎原爆にあわなかったという。
しかし、空襲は原爆と比べものにならないが、回を重ねるにしたがい恐怖心が増したという。

この本でも、戦艦・武蔵が、「化物」と書かれてありました。

「邀撃戦闘機・秋水-その秘密基地を大村に作るの記-」という文章がありました。

ここでも海洋投棄されたようです。下「」引用。

「私が原爆で負傷し、約一月有余休養し、九月中旬出勤したときは、第三船殻工場には職員四名(内女子二名)と工員二二名しかおらなかった。工場長からは、今後の作業に対するなんらの方針も無い様子である。その内、米国兵が造船所内に進駐して来て、工員はその雑役に出ていたようだ。ある日、大きい兵士二、三名が事務所に入って来てロッカーを開け、工場団体旗を持出して行った。こけを見て誰もなんにも言わない。ただ彼等の行動を見守るばかりである。
 やがて、八軒家の本工場の建物が進駐軍に接収されることとなり、早急の整理を要求され、加藤三郎技師が指揮を取り工員を動員して一晩で片付けた。その時、特攻機・橘花に使用されるべき素材のジュラルミン板、約五○機分が格納されていたが、その大部分が海中に投げ捨てられたことを思い出す。」

旅行証明書をだしたという。下「」引用。

「造船所に出勤するとその日から、食堂跡の仮事務所で、旅行証明書の発行係の仕事に従事しました。鮑ノ浦の第一事務所の裏の空地で焼かれた死屍の、なんとも言えない臭気の中での仕事でした。
 次つぎに証明書を貰いに来られる人々は、みなさん怪我をしたり、火傷をした人ばかりでした。手当を受けられた繃帯の上にまで血が滲み、実にいたいたしい程でした。」

テレビもない時代、童話は受けたのかもしれませんね。下「」引用。

「私はよく挺身隊の寮を訪ねて、盆踊を教えたり童話を話したりして慰問して来た。従って挺身隊の人達は、私を懸賞係の技師としてよりも、踊りやお話の先生として親しんでくれたのであったが、こんなにひどい目にあって三十五名の美しい命を散らすのかと思うと、じーんと胸がつまった。」

サルゾールという薬があったという。下「」引用。

「昭和二十年春三菱化成黒崎工場に工事打合せに出張した時、サルゾールを二オンス程土産に頂戴した。当時夏になると徴用工の間に日本脳炎が流行し、その特効薬として発明されたものであるが、化膿を防ぐ薬として外傷にもよく利くという説明であった。サルファ剤の走りであるが、頂戴した時は左程貴重な薬とは考えていなかった。八月九日被爆の時、私は硝子の破片で背・肩等に傷ついたがすぐサルゾールを塗布したため、出血も止り化膿もしなかった。又長男も額に硝子による切傷を受けたが、これもまたサルゾールのお蔭で大したことにならずに済んだ。」









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