磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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いのちの塔 広島赤十字・原爆病院への証言

2006年07月24日 | 読書日記など
『いのちの塔 広島赤十字・原爆病院への証言』
   「手記集」編纂委員会・編/中国新聞1992年、1992年2刷

帯に書かれてあります。下「」引用。

「原爆ドームが『破壊の象徴』とするならば、広島日赤病院は、広島の復興と被爆者たちの『生への営みの象徴』であり、なんとしても残されなければならない(宗藤尚三・編纂委代表)」



「上 : 広島赤十字・原爆病院旧本館
下 : 原爆の爆風でねじ曲がった窓枠」

大江健三郎が文章をよせています。下「」引用。

「核時代の生命のしるし
  −序にかえて−   大江健三郎

−略−
 今後、国際政治のダイナミズムがどのように変化するとしても、この生命のしるしの重さ、あきらかさに変化が生じることはありえぬでしょう。しかし時は過ぎ、人は去り、忘却はおとずれます。いま、広島赤十字・原爆病院を支えた人びとの記録が新たに集められた交刊されることの深い意味をしみじみと思います。
  一九九二年 5月」


広島と赤十字といえば、ジュノー博士を思いだします。
ジュノー博士の碑が病院にあるという。

退院すれば家がなく、今の平和公園で野宿したという。下「」引用。

「病院の門を後にした私たちは、住む家を探すために市役所をたずねた。戦後まもなく、西練兵場跡のなかに建てられた、市営住宅へ入居申し込みをするためだった。しかし、職もなく、収入もない人には、入居資格はないと言われた。とうとうその夜は、今は平和公園になっている爆心地近くの焼け跡で野宿した。」


戦後直後だからではありませんね。
今の東京もホームレスの人たちはそうらしいですよ。

山口勇子の未完の作品が掲載されており、下のことも書かれありました。

「山口勇子さんは、自宅が日赤病院裏にあり、原爆投下の当日は所用で今の井口辺りにいて難をまぬがれた。翌七日、両親を探しに広島に入り、傷ついた二人を日赤病院内で発見した。数時間後にの息を引き取った父母の遺体を病院裏庭で自ら立ち会って焼いた。」






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