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満州事変とは何だったのか-国際連盟と外交政策の限界-

2009年01月15日 | 読書日記など
『満州事変とは何だったのか-国際連盟と外交政策の限界-上巻 The limits of foreign policy』
   クリストファー・ソーン(著)/市川洋一(訳)/草思社1994年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「アジアをめぐる列強の外交政策と国際政治機構という新しい視点から満州事変の意味を問いなおした画期的労作。」

最初は、反共の方が強く、日本はその防波堤と思われていた……。

国益という名の欲望……。

国益とは各国の国民のものではなく、政治家たちのギャブルであった……。

デモクラシーなどではなかった……。

--そんな感じに思えてならない……。

それは日本だけではなかった……。下「」引用。

「満州事変はすぐにアメリカの歴史家たちに影響を与えた。彼らは、当時の、とくにイギリスの意見に対して、アメリカは極東から手を引く必要があると主張した。だがアメリカが手を引き、満州での侵略行動がこのまま許され、国際連盟が無視されることになれば、他の地においても戦争の勃発が避けられなくなると思われた。-略-」

イギリスもまた日本と同様の帝国主義であった……。
いや、日本の教師でもあった……。下「」引用。

「フランスと同様、イギリスが脅威に感じていたのも日本ではなかった。イギリスは日本海軍の養成に援助を与え、日本の商工業の発達は、イギリスでは、擁護者ぶった立場からとはいえ広く賞賛されていた。十九世紀末の愛国主義的なはなはだしい言葉、一八九七年のヴィクトリア女王在位六○周年祝典に示された「世界の国々に対する……挑戦的な態度)や、イギリスは現在も将来も「東洋における最高の勢力」であるというカーゾンの確信にもかかわらず、それらの陰には不安感、南アフリカに対する帝国主義的主張についての疑問、それに衰退の意識さえも存在したのであった。」

ソ連の膨張主義……。下「」引用。

「帝国主義列強の地位が共産主義者の扇動によって脅かされそうな気配は、他の地域にもあらわれていた。一九二六年には共産主義者の指導する暴動がインドネシアで起こった。フランスはホー・チ・ミンのヴェトナム共産党を地下に追いやることはできたが、潰滅させることはできなかった。インドの労働組合運動に対する共産主義の影響は、インド亜大陸に対する北方からの古くからの脅威についてのイギリス政府の心配をかきたてた。だが、一九二○年代にソ連の政策がもっとも顕著な成功をおさめたのは中国だった。ワシントン懐疑に集まった列強の無気力さに幻滅した孫文は、助力をモスクワに求めた。一九二四年には広東で国民党と中国共産党のあいだに合作が成立した。そして同時に中国はソヴィエト政府を承認し、東支鉄道の中ソ共同管理のもとで満州北部に対するソ連の影響が永続することを認めた。」



『満州事変とは何だったのか-国際連盟と外交政策の限界-下巻 The limits of foreign policy』
   クリストファー・ソーン(著)/市川洋一(訳)/草思社1994年

イギリスの反米……。下「」引用。

「マクドナルドの悩みの種は、海軍軍縮に関する英米両国の相対立する要求に加え、さらに債務問題が、すでに政府中に広がっているとみられていた反アメリカ感情をいっそう増大させたことであった。ロンドンデリーは六月に「アメリカにはもううんざりだ! あいつらにわからせるためには一撃くらわすしかない!」と書いた。ボールドウィンの怒りも高まっていた。ネヴィル・チェンバレンは妹にあてて次のように書いている。「アメリカに対する感情を抑えることができなくなってきた。彼らの有名人(彼らは指導者がいない)には一片の道義的勇気もない。-略-」

アメリカはイギリスの植民地でもありましたね……。

そして、原爆投下の陰の実力者・スティムソン……。下「」引用。

「フィリピン独立法案の可決は、スティムソンにとっては苦い瞬間だった。かねてから彼は、フィリピンの独立は東アジアにおける政治的均衡の破壊であり、アメリカの通商、キリスト教、文明、これら三つの輪を広げようという彼の構想の否定であると考えていた。-略-」






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