磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ヒロシマを持って帰りたい-原爆被害者崔英順-

2008年05月15日 | 読書日記など
『ヒロシマを持って帰りたい-原爆被害者崔英順-』
   韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部・編/
     韓国の原爆被害者を救援する市民の会1975年

地道に活動されていることに頭がさがります。そして、対応するのに大変だろうと思います……。他国の人から反日されることに対して、ゼロサムゲームをされても決して解決するわけがありませんね……。解決はこのような友好からだろうとボクは思います……。




詩人が最初の方に寄せられています。下「」引用。

「いちばん欲しいこと--崔英順さんに
         大原 三八雄
-略-
あなたはヒロシマに来た
命を背負ってヒロシマに来て入院している
-略-
あなたたち外国人の人々が みな
「ヒロシマの人」である日が
いま いちばん欲しい」

「ヒロシマの人」
--差別なきという意味でボクは受け取りました……。

反対に「ハプチョン」の人にもならないとね……。
--友好にならないような気もボクにはしますが……。


韓国人の被爆者について。下「」引用。

「そもそも韓国人原爆被害者というのは、かつて、日本の戦争政策のままに「日本人」としてその国策に参与させられ、被爆した朝鮮人のことである。その数は「広島の被爆者七万、長崎で三万人。計一○万人のり同胞被爆者のうち半数が被爆時か直後に死亡。解放後約八○○○人が日本にとどまり、帰国途中遭難した者も相当数にのぼるので、これらを除いて無事帰国した者が約三万人。その後三○年間に、被爆が原因で、あるいは動乱の犠牲と重なってさらに多くの人が死に、現在韓国全土で二万人以上の被爆者が生存」(韓国原爆被害者援護協会の推定=一九七四年)といわれつつも、その実態はさだかでない。」

当時も、野蛮な行政だったと思います。下「」引用。

「「朝鮮人はわが法規に服従するか、死か、そのいずれかを選ばねばならない」(初代総督寺内正毅)」


戦中、級長に選ばれたという……。下「」引用。

「それで、自分が朝鮮人だからと言って人に後指をさされたくないと思い、何でも一生懸命頑張った。それで成績もよくなり、五年生になると選挙で級長に選ばれるようになった。しかし、一部に「朝鮮人を級長にするなんて……」とささやく人もいたので辞退した。その時は大変なさけない気がした。」

益田高女入学したことが新聞で報道されたという。下「」引用。
「「福本英子」とつけた。その当時の新聞は「初めて朝鮮人が入学した。」と、おかっぱ頭の写真入りで報道したので、ほとんどの友が、私が朝鮮人であることを知っていたと思う。それで差別されたくないので、何でも一生懸命頑張った。家から学校まで遠いので寄宿舎に入った。そこでは別に差別されることはなかった。」

こんな噂があったという。下「」引用。

「その頃、村には「朝鮮人を殴り殺せ!!」という噂が拡がっていた。」

関東大震災でのことを思い起こせば、心配はつのるばかりでしょう……。

そして、崔さんは広島原爆病院へ入院できることになった。下「」引用。

「広島に行けば治るんじゃないか、そういうことを言うんですけど、広島というもをさげて帰ることはできないです。」

韓国のハプチョンの医療センターができた。
でも、薬などが足りないという……。








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