磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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沖縄の決戦-県民玉砕の記録-

2009年10月09日 | 読書日記など
『沖縄の決戦-県民玉砕の記録-』
   浦崎純・著/日本文華社1971年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「貴重な玉砕戦の記録
  大浜信泉(南方同胞援護会会長)
 玉砕主義は、日本の伝統的戦争哲学でぁった。それが勝利に結びついた場合はよいが、その逆の場合にはまことにみじめである。沖縄戦、その典型的な例である 。
 沖縄戦については、すでに多くの本が書かれている。だが、戦争の現場で、その住民の感覚でこれをとらえた記録は乏しい。
 この意において、浦崎純君のこの『沖縄の決戦」は、みずからの体験にもとづいて悲惨な戦争の全貌と実相を描きつくした貴重な文献としてこれを推奨したい。」



「はじめに」 下「」引用。

「“国破れて山河あり”は、弓矢で戦った昔のことである。
 私たちがくぐってきた沖縄戦では、山は裂け、谷は埋まっていた。まさに“国破れて山河なし”だった。しかもそれだけでなく、いっさいの地上物はことごとくその存在を否定された。
 人間は一片の肉塊となって宙に飛び散った。戦場に足を踏み入れることは、人間の場に足を入れることだった。首はちぎれ、手足はもぎ取られ、胴体はズタズタに引き裂かれ……。
 かつてわれわれが描いた地獄絵巻にもこのようなむごたらしい場面があっただろうか。-略-」

「十万人をどう引き揚げさせるか」 下「」引用。

「昭和十九年七月八日の早朝から、鹿児島県庁は、にわかに騒々しくなった。奄美大島からの引き揚げ物を母県の立場でうけいれる仕事と、沖縄からの引揚げ者を港で迎えて受け入れ、他県へ輸送する任務を鹿児島県がひきうけたからである。滞在していた私も沖縄県を代表して協議に加わったが、奄美と沖縄をあわせて十万人をこえる老幼婦女子のとりあつかいとなると問題も多く、連日連夜の会議となった。鹿児島県の関係部課は、本来の業務を放って引揚げ業務に没頭した。-略-」

引揚げ船は貨物船で客室なし。カイコのように棚に寝たという。

「学童の集団疎開」 下「」引用。

「日本本土では“疎開”と呼んでいたが、政府は沖縄や南洋群島の場合、“引揚げ”と呼ばせていた。それは疎開と引揚げが本質的に異なるからでもあったろうが、いつの間にか沖縄でも、疎開、疎開と呼ぶようになっていた。
 八月に入ると、教学課からの要望もあって、疎開者の編成を、一般疎開と学童疎開の二本建てにすることになった。-略-」

対馬丸の遭難はあらゆる立場の責任者を苦境に……。

福岡県庁記者クラブで。下「」引用。

「十四日付けの毎日新聞は、現地特派員の持ち帰った情報を一面全段抜きで、「那覇市灰燼に帰す」との大見出しで、大々的に報道していた。この記事は、他の各紙にさきがけて本土にもたらされた詳報第一号であったが、想像を絶した近代戦の恐るべき様相を、余すところなく伝えていた。
 翌日は県庁記者クラブで、その記者を招いて実状を聞いたが、記事で知った様相より、口から聞く惨状に私は慄然とした。」

疎開者の状況……。下「」引用。

「私は沖縄への物資輸送のあい間を見計らって、大分に出かけ、疎開者の状況を見てまわったが、那覇市の人たちの身なりや持ち物は、さすがに戦争民の生活の貧しさがはっきり現われていた。
 だが空襲の経験で沖縄の運命を見きわめていたのか、彼らはどんな苦しい生活にも耐えぬくという決意がうかがえてたのもしかった。」

「6 沖縄守備軍の集結」

「沖縄疎開者の満州再疎開説」 下「」引用。

「私は昭和十九年十一月と十二月の会合に、沖縄県知事代理官として出席したが、十二月の会合ではショックをうけた。九州の沖縄疎開者を、満州に再疎開させる話がでたからである。-略-」

「疎開学童の激励放送」 下「」引用。

「-略-上陸戦がはじまって間もない頃の報にこんなのがあった。九州に疎開していた学童たちが、郷里に寄せた放送で、ラジオからの取材であった。
  沖縄ノ兵隊サン勝ッテ下サイ
  キット勝ッテ下サイ
 幾山河離れた遠くの疎開学童たちの郷里への愛情と勝利への必死の祈りには、大人も兵隊も涙を流して必勝を誓ったのであった。-略-」

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「4 米軍の猛攻つづく」

収容所で……。下「」引用。

「収容所は、つぎつぎと新入り者がふえ、にぎわった。大入り満員の盛況だった。
 澄みきった青空には、六月の太陽がサンサンと降っていた。南国の陽ざしを素直に楽しめた。きのうとは打って変わった別世界だった。砲声も爆音も聞こえなかった。生命の危険もなく、戦争から解放された気だるい安堵があった。“鬼畜米英”の仕打ちなど、微塵も懸念することはなかった。
 私は午前と午後の二階仮繃帯所で手当をうけた。右腕に破片が深く食いこんでいるらしく、傷口とは別の痛みを感じていた。-略-」

「麻酔を断って手術をうける」 下「」引用。

「-略-これには私も二の足をうんだ。なぜかというと、これまで私の周囲で死んでいった連中は、ほとんどが全身麻酔のためだからである。手術はうまい具合にいったが栄養失調でひどく衰弱していたので、仮死状態からとうとう息を吹きかえさなかった。-略-」

変わりはて、沖縄の住民はまるで幽霊の列だったという……。










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