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セミパラチンスク-草原の民・核の爪痕-新版

2012年06月06日 | 読書日記など
『セミパラチンスク-草原の民・核の爪痕-新版』
   森住卓(写真・文)/高文研2011年

「核実験は祖国に対する核戦争だった」 下「」引用。

「私の取材に協力してくれた、カザフの写真家ユーリ・クイジンさんは二○○○年にガンで亡くなった。自らの被曝は恐れず実験場の中を歩き回った結果かも知れない。彼が取材中に「核実験は祖国に対する核戦争だったのだ」と言った。彼のその言葉がいつまでも脳裏に焼き付いて離れない。感謝とともに冥福を祈る。」

「原子力は人類に対する戦争」という人もいましたね。決して勝つことはない、戦争だと……。
勝つことがあるとしたら、核廃絶だけ……。



帯に書かれてあります。下「」引用。

「写真家にできることは、
そこに暮らす被曝者の姿、苦しみ、
悲しみを映像で伝えること--。
17年にわたる現地取材・撮影に
よって伝える“核汚染”の実態!」

日本の核基地化……。下「」引用。

「核兵器も核実験も原発も根は同じ。日本の原発は、アメリカの核兵器の中で日本を核基地化する過程で核アレルギーを払拭するために、「原子力の平和利用」の隠れ蓑にくるまれて、アメリカから導入されたものだった。」

この本を……。下「」引用。

「いまもっと積極的にセミパラチンスクのことを伝えようと思っている。『新版』を出版してセミパラチンスクの被害のことを知ってもらおう。「フクシマ」を境に原発のことを考えている人びとに、人類は核と共存できないことを伝え、一刻も早く核エネルギーに頼らない平和な社会を築くために……、そう思って私は、この本を世に送り出すことにした。」

ネバダ・セミパラチンスク運動」 下「」引用。

「一九八九年二月二六日、カザフスタン作家同盟第一書記のオルジャス・スレイメノフは首都アルマトイ(当時。現在はアスタナに移転)のテレビ局で全ソ連人民代議員選挙のテレビ演説を始めようとしていた。演説原稿は上着の内ポケットに入れたまま呼びかけた。
「今月、二度の実験で有毒な物質が大気に放出した。危険は核実験が始まった四○年前からつづいている。二日後、首都アルマトイが抗議集会を開こう--」
 これが、ソ連の核実験被害を公然と語ったはじめての日となった。核実験場閉鎖の運動はまたたく間に カザフスタン全土に広がった。
 四○年間沈黙を強いられたヒバクシャやその家族が、口ぐちに被害とその苦しみを訴え始めたのだ。その運動の中心を担ったのが「ネバダ・セミパラチンスク運動」だった。セミパラチンスクとネバダ、ビキニ、ポリネシア、ヒロシマ、ナガサキ、そして世界中のヒバクシャが連帯して、被曝(爆)者の救済、核兵器廃絶のためにたたかおうという意味が込められていた。」

カザフスタン独立……。下「」引用。

「一九九一年一二月、カザフスタン共和国が独立し、世界ではじめて、国民的な運動で核実験閉鎖を勝ち取った。だが、ソ連の継承者ロシアは、核実験による被害の責任を取ろうとしなかった。さらに被曝の実態解明に不可欠な核実験に関する機密文書を持ち去った。」

過去の問題……。下「」引用。

「その後、カザフスタンは空前のバブル時代を迎え、都市では近代的な高層ビルが建ち、独立当時の面影は失われてしまった。この好景気を支えているのが地下鉱物資源だ。とりわけ天然ウランの輸出は世界第二位になった。核開発の原料・ウランと核実験被害は相容れず、核実験被害は過去の問題となってしまった。
 核実験周辺の「辺境地」は、経済発展から取り残されただけでなく、最も悲惨な核被害が進行している。ネバダ・セミパラチンスク運動の活動家たちは、国際的支援の名の下で動く大金によって、被曝者から遠い存在になってしまった。
 その意味で、被爆者は再び見捨てられてしまった。」

「子どもの家には様々な症状の障害をもった子どもがあずけられている。(1999年9月)」

「六本足の子牛」 下「」引用。

「一九九五年の二月に生れたものだ。
 奇形の牛や羊が生まれることは核実験周辺の村では特別珍しくはない。多くの場合は、飼い主が不吉だったということで、すぐに処分をしてしまう。
 しかしこの子牛は、六本足であっても元気だったので、飼い主のマイラさん(59歳)は育てることにした。
 ボデネ村のセーリックベック村長ガ、その子牛のいる牧場に案内してくれた。
 そこは村の外れで、核実験場(ポリゴン)に連なっていた。五月の太陽を浴びて、二頭の子牛か草の上に気持ちよさそうに寝そべっていた。-略-」

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「ベーリックくんとの出会い」

「水爆実験で消えた村」 下「」引用。

「事件が起こったのは、コルフォーズ・タイランという当時人口四五六人の村。一九五三年八月一二日、はじめての水爆実験の時だ。-略-グシェフ博士は、事件が起こったのは一九五三年と言った。しかしガブデンさんは一九四九年だと言う。「軍が強制立ち退きを命じたのだ」と。さらに、村の名前はコルフォーズ・タイランではなく、「コルフォーズ・エンゲクテーズだ」と語った。-略-」











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