磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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きのこ雲 日赤従軍看護婦の手記

2007年12月03日 | 読書日記など
『きのこ雲 日赤従軍看護婦の手記』
    雪永政枝・他(著)/オール出版s59年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「戦争を生きてきた人たちへ
原爆の洗礼を受けた人たちへ
戦争も原爆も知らない人たちへ
私たちは語りたい。看護を天職とした私たちが、どう生きたか、どのように平和の大切さを知ったかを……。」



おおぜいの看護婦さんが記事を書かれています。

戦争がはじまったら、戦場が遠くても病院は無関係ではいらない。下「」引用。

「ノモンハン事件が起きると重症の負傷者が続々と護送されて来るようになり、宇品に船が入るたびに、衛生兵が何十台もの護送車で迎えに行った。」

戦争をすすめるために、従軍小説家という人たちがいたそうです。これもその関係? 下「」引用。

「昭和一七年八月八日に、「主婦の友」から派遣された作家の岡田禎子女史が、傷病兵看護を取材するため広島陸軍病院を訪れ、私は杉野院長の指名で、将校会議室で対談した。」

検索すると、岡田禎子さんには『病院船従軍記』という作品もありますね。

新聞も戦意高揚の担い手であり、客観的な報道はされなかったという人もいます。

広島陸軍病院は大きかったようです。下「」引用。

「昭和一八年一二月二○日、日赤兵庫支部からの召集令状で、第一○六救護班補助要員として広島陸軍病院に配属された。広島は宇品港を通して大陸からの傷病兵が送還される関門であった。
 軍病院は本院、第一分院、第二分院、三滝分院、江波分院があり、私が勤務したのは第二分院で、主として内科疾患の患者を収容する四一号病棟であった。二階は将校病室、階下は下士官以下の兵を収容した。重症者は少なく、案外落ち着いた勤務で、新米の私には幸せだった。昼休みには院庭でバレーボールその他の遊びに興じることもあった。」

病院船は戦後も日本へ帰るために必要だったようです。下「」引用。

「病院船・有馬山丸は昭和二一年一月二六日に宇品を出航した。途中、汽罐(きかん)部の故障で何度か最寄りの港で補修したが、一月二八日から三月一五日にかけて第一回のブーゲンビル航海を行った。」


コレラは酸に弱いので、梅干を食べたという。

GHQのナースについても書かれてありました。下「」引用。

「ここで戦後のGHQの看護行政に若干、触れてみたい。
 昭和二○年九月、連合軍の一機構として連合軍総司令部公衆衛生福祉局看護課が設置された。局長はサムス軍医大佐だったと思う。G・E・オルト大尉が課長に就任、その配下にアメリカのエリート・クラスのナースたち十余名が東京に、そして地域毎に一~二名の婦長クラスと軍医が配置されていた。」










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