磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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武谷三男著作集2 原子力と科学者

2008年05月27日 | 読書日記など
『武谷三男著作集2 原子力と科学者』
   武谷三男・著/勁草書房1968年、1975年5刷

いろいろなことが書かれてあります。もし、核実験のことで、アメリカの学者のいうとおりにしていたら、世界の人たちはどうなっていたのだろうか? 日本の学者たちは、勇気があり、努力をされた。今、もし、そんなことが起きたら、どうなるのだろうか?




■目次・大タイトルのみ■
・原子力  3
・科学者の心配  195
・原子力と科学者(日本の科学者の動き)  341


ソ連の世界支配を忘れているというアメリカ政府筋。
--アメリカの世界支配を忘れているアメリカ政府筋。

こんな記事もありました。下「」引用。

「原子力兵器を最初に使う国は有罪
  (平和擁護世界大会ストックホルム第三回総会)
  (平和擁護世界大会委員会第三回総会は本年3月15日よりストックホルムの国会議事堂で、フレデリック・ジュリオ=キューリー教授を議長として開かれ、全会一致で三つの決議を採択した。」

福竜丸のことも書かれてありました。下「」引用。

「1954年3月、第五福竜丸が被爆した時の水爆は、おそらく広島型原爆の500倍から1,000倍のエネルギーを出していると思われるので、その火の球はもっと大きく、原子雲はもっと拡がったものと思わねばならない。第五福竜丸は、当時その拡がった原子雲の傘の端あたりにいたと考えるから、猛烈に灰を被ったということは当然の話である。そしてその後、風に乗って、あちこちに灰が流されて行ったことであろう。第五福竜丸が、その時に、はじめて設定されていた危険区域の中にいたとか、外にいたとかいうことを、アメリカの原子力委員会が問題にして、中にいたからやられたのた、ということを言っているが、そういうことを言う前に、アメリカの原子力委員会は、危険区域を6倍の大きさに拡大した。それまでの小さな危険区域は、全然無意味なものになってしまった。したがって以前の小さな危険区域の外にいたとか、中にいたとかいう問題は、もはや存在しないはずである。」

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アメリカの医療。下「」引用。

「アメリカ側が実際にはどういう風に診察をするかの例は、広島のABCCではっきりとしていると思う。-略-私の想像としては、アメリカ側に渡していたら、ビキニ患者は半分以上も死んでいただろうと考えるのてある。」

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--1950年ころ、積極的かつ露骨なレッド・パージが異常にヒステリックに行われたという。
CIEに委託されイールズ博士来日、日本の各大学を行脚。
GHQの押しうりであったという。東大は最初からはねつけたという。
地方では、学生がとくに熱心に反対し、北大の物理の宮原将平教授や松浦一教授と問答でイールズ博士をやっつけたという。
--「ノー・モア・ヒロシマ ノー・モア・イールズ」という言葉が流行ったという。

--田無のことが書かれてありました。
田無町議会では11対10で、つくってはならないと議決る
--朝永委員長。下「」引用。

「わたくしたち学者として、原子核の研究だけに純粋にやっていこうという決意であるけれども、大衆から「あなたたちはそれを保証するのか」と聞かれた場合には、これはいつの時代にも政府の権力に対してわたくしたちが研究を十分守る自信もなにもない。だから学者にはそのような保証はないと、率直にいわざるを得ないが、ただわたくしたちはこの研究所で、原子核物理以外にやるつもりはない。それから田無の人たちが心配しているのは、ここで原子核の研究をやっていれば、それが原子力研究に移行していって、ここに原子炉ができるのではないかということであった。この意見がいちばん重要性をもっており、また大きな意味があるというふうにわたくしは考えたのである。」

東大当局が田無に対してきわめて官僚的な態度をとったという。

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三原則をじゃまする人たち。下「」引用。

「そのうち特別委員会のなかでも、武田栄一氏、科研の杉本朝雄氏などは、三原則というのは理想論であって、なんでもいいから早く進めなければならない。そうでないと会社などがどんどん研究をやって、物理学者を全然仲間に入れずに、勝手に原子炉をつくってしまう心配があるのではないか、という意見をいった。」

--湯川は、物理学者に原子力はあせるべきではないと主張。
関西の大学用原子炉問題がおこる。
京大工学部が勝手に最初宇治に勝手に決め、湯川はお手盛りの委員長にさせられたという。
--1957年春に湯川は病気になり、原子力委員を辞任。

宇多耕一大臣。下「」引用。

「英国動力炉の問題が急激に活発化してきて、57年2月に入って、宇田大臣は日本の原子力計画を発表した。これも、もちろん原子力委員などは全然与り知らないもので、宇田氏が勝手に考えたようなものであった。-略-宇田原子力委員長ははその反駁を東京新聞に寄せた。-略-これを見ると、宇田原子力委員長は原子力発電ということについての常識程度の知識すらもっていないことが明らかであった。たとえば原子炉の中での熱出力と、それが電気になったときの発電の出力との違いすらもわきまえてない、というようなものであった。このような考えのもとに原子力政策というものが行われ、原子力委員会すらも無視して進んでいくというやり方であった。」

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