『原爆前後XXXVI』
思い出集世話人・編/白井秀雄1977年
今回は、キノコ雲についてが印象に残りました。
「あとがき」で白井さんは書かれています。下「」引用。
「なお、本巻には荒木豊作氏の原爆炸裂の初期の珍しい観察記録を収録することが出来た。同氏がこういう観察をされたというのは、お若いころ長船の造機設計に勤務されて多くの艦船の試運転の諸計測になれておられたこと、特に砲兵中尉として中支戦線で、砲弾の着弾観測に経験をつまれたためと僕は思っている。この観察は珍しいものなので、同氏から頂いたスケッチも本書に掲載することにした。-略-
なお、原爆初期の朝顔型の雲は重工の古賀繁一氏も見ておられるが、それは一個で、すでにその軸は地上に届いている時期のものである。そして、朝顔の花辨の部はピンク色、地上に届いている軸は白色、この軸部は地上近くで逆朝顔形に広がっており、その部分は黒色に見えたという。荒木氏の観察は、古賀氏より少し前の状態のものと思えるが、はたして、そう考えてよいのか、もっともっと資料を集めたい。」
「原爆炸裂の瞬間」で荒木豊作は書かれています。下「」引用。
「北の空をジッと見ていたのだが、思わず「奇麗だなぁ」と感じたほどの次々に拡がる炸裂の煙と姿と色に見入ったのである。
それは薄い赤紫の平ぺったい朝顔型の輪っぱが一つ先ず下の方に出来、それに続いて、その上に更に大きな朝顔型が一つ、更にもっと大きい三つ目が新しい輪っぱがその上にパッパッと出来てゆき、その一つ一つの輪っぱが広がりながら、一番上の一番大きな朝顔の頂上が、いわゆるキノコ雲上にもくもくと湧き立ち、渦まき立ち昇る光景は、まさに驚歎に値する不思議なものであった。思い出すままに、次々と変化していった光景をスケッチしてみると別図のようになる。」
鈴木内閣については、一部の新聞で、これが終戦内閣になるだろうと匂わしていたという。
8月11日の紙面。下「」引用。
「さらに悪いことには、同じ日の同じ紙面に、参謀本部軍務局の本土決戦派が阿南陸相に無断で出したという例の「全軍将兵に告ぐ」(この全文は31/145に引用してある)という徹底抗戦の軍命令が、前の声明文と並んで掲載されてあった。だから、この日の紙面からは、戦争は当分続くと思われた。」
長崎では14日にはもう終戦はウソだと触れまわっている者たちがいたという。下「」引用。
「それに、さきも言ったように長崎の場合は、十四日に憲兵隊その他が、終戦はウソだと街中に触れ廻っていたというのだから(5/106)、これを聞いた市民には、十五日正午のラジオが終戦を告げるものと予告されていたようなものだった。だから、あの不明瞭なラジオが何であったかが解かったのだろう。さらに、この憲兵隊などの終戦否定の宣伝は十五日、十六日の両日にも行われたので(31/94)、十五日の正午の放送を聞いて意味が解らなかった人々も、あれは終戦の知らせだったのか、と知ったわけだ。」
たぶん、テレビドラマのようにすんなり、終戦だと思った人ばかりではないとボクも思います。
小野田さんや、横井さんのような人たちもいたくらいですから……。
「あとがき」で。下「」引用。
「この巻の長鋼の方々の手記は、三菱製鋼が原爆三十年記念として発行された「原爆の思い出」に掲載されたものである。」
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目 次
思い出集世話人・編/白井秀雄1977年
今回は、キノコ雲についてが印象に残りました。
「あとがき」で白井さんは書かれています。下「」引用。
「なお、本巻には荒木豊作氏の原爆炸裂の初期の珍しい観察記録を収録することが出来た。同氏がこういう観察をされたというのは、お若いころ長船の造機設計に勤務されて多くの艦船の試運転の諸計測になれておられたこと、特に砲兵中尉として中支戦線で、砲弾の着弾観測に経験をつまれたためと僕は思っている。この観察は珍しいものなので、同氏から頂いたスケッチも本書に掲載することにした。-略-
なお、原爆初期の朝顔型の雲は重工の古賀繁一氏も見ておられるが、それは一個で、すでにその軸は地上に届いている時期のものである。そして、朝顔の花辨の部はピンク色、地上に届いている軸は白色、この軸部は地上近くで逆朝顔形に広がっており、その部分は黒色に見えたという。荒木氏の観察は、古賀氏より少し前の状態のものと思えるが、はたして、そう考えてよいのか、もっともっと資料を集めたい。」
「原爆炸裂の瞬間」で荒木豊作は書かれています。下「」引用。
「北の空をジッと見ていたのだが、思わず「奇麗だなぁ」と感じたほどの次々に拡がる炸裂の煙と姿と色に見入ったのである。
それは薄い赤紫の平ぺったい朝顔型の輪っぱが一つ先ず下の方に出来、それに続いて、その上に更に大きな朝顔型が一つ、更にもっと大きい三つ目が新しい輪っぱがその上にパッパッと出来てゆき、その一つ一つの輪っぱが広がりながら、一番上の一番大きな朝顔の頂上が、いわゆるキノコ雲上にもくもくと湧き立ち、渦まき立ち昇る光景は、まさに驚歎に値する不思議なものであった。思い出すままに、次々と変化していった光景をスケッチしてみると別図のようになる。」
鈴木内閣については、一部の新聞で、これが終戦内閣になるだろうと匂わしていたという。
8月11日の紙面。下「」引用。
「さらに悪いことには、同じ日の同じ紙面に、参謀本部軍務局の本土決戦派が阿南陸相に無断で出したという例の「全軍将兵に告ぐ」(この全文は31/145に引用してある)という徹底抗戦の軍命令が、前の声明文と並んで掲載されてあった。だから、この日の紙面からは、戦争は当分続くと思われた。」
長崎では14日にはもう終戦はウソだと触れまわっている者たちがいたという。下「」引用。
「それに、さきも言ったように長崎の場合は、十四日に憲兵隊その他が、終戦はウソだと街中に触れ廻っていたというのだから(5/106)、これを聞いた市民には、十五日正午のラジオが終戦を告げるものと予告されていたようなものだった。だから、あの不明瞭なラジオが何であったかが解かったのだろう。さらに、この憲兵隊などの終戦否定の宣伝は十五日、十六日の両日にも行われたので(31/94)、十五日の正午の放送を聞いて意味が解らなかった人々も、あれは終戦の知らせだったのか、と知ったわけだ。」
たぶん、テレビドラマのようにすんなり、終戦だと思った人ばかりではないとボクも思います。
小野田さんや、横井さんのような人たちもいたくらいですから……。
「あとがき」で。下「」引用。
「この巻の長鋼の方々の手記は、三菱製鋼が原爆三十年記念として発行された「原爆の思い出」に掲載されたものである。」
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目 次
1976年に私が就職活動していた時に丸の内の三菱化工機のビルで白井氏には父と三人で会ったのではないかと思います。その時に白井氏が私に「あんたの親父さんが技術者魂でまめに原爆投下直後のきのこ雲をスケッチしていたお陰で原爆の本が詳しく書けたよ。」と仰られたことを妙に記憶しています。
特に爆心地の松山町付近には至る所に遺体が散乱していたため父はその他の生存者と一緒に遺体を荼毘にふしたと聞きました。生存者も投下された爆弾が新型爆弾とは予感できたとしても放射能を含んだ原爆とは誰も分からず爆心地を平気で歩き回ったようです。それが直接影響したのかは不明ですが、父の白血球数は標準値をいつも上回っていました。それ以外は元来健康だったため1999年に89歳で亡くなるまで毎年春と秋の二回必ず三菱のOB会に上京しておりました。戦後63年経って徐々に被爆者の数が減っていますが、原爆の悲しい記憶は消えないようにしたいものです。
私が通った爆心地に最も近かった城山小学校には昭和36年当時にはまだ防空壕の跡(穴は石を積んで塞いでありました)が3個ほど校庭の片隅に残っていました。昭和20年8月9日11時2分の原爆炸裂によって生徒の約1400名と教員および学徒隊員の130名が命を落としたと城山小学校のホームページには記されています。(長崎市内の小学校のポームページ開設率はほぼ100%のようで大変進んでいます)
毎年8月9日の登校日に行われていた鎮魂の祈りに防空壕の中で奇跡的に助かった婦人(被爆当時城山小学校の生徒)が私たちにその時の様子を悲しく聞かせてくれたことを覚えています。婦人は気を失った後、目が覚めると防空壕の中で爆発直前まで隣で話をしていた友達がみんな倒れていてその遺体を掻き分けて防空壕の外に出たこと、おびただしい数の負傷者(殆どが火傷を負う)が水を求めて近くの浦上川に飛び込んでいたが、みんな浮き上がることはなかったという話を涙を抑えて話されていました。
1万メートルの高度から投下された原爆が攻撃目標の三菱造船から北に4kmほどずれて爆発したために幸いにも私の父親も生存でき私自身の今がある訳ですが、被爆者を父に持ち唯一の被爆国の被爆二世として微力ながら平和への貢献に尽くしたいと思っています。