磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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坂本龍馬知れば知るほど

2010年02月10日 | 読書日記など
『坂本龍馬知れば知るほど』
   山本大(高知大名誉教授)・監修/実業之日本社1999年

陸援隊と海援隊とは思想が異なり、龍馬暗殺犯を陸援隊としている説も書かれてある……。



重文になった龍馬ゆかりの品……。下「」引用。

「平成十一年四月、書簡や屏風、紋服など坂本龍馬ゆかりの品一○点が重要文化財に指定されることになったと発表された。維新の立役者では初のことだといい、あらためて龍馬の人徳、偉大さに驚かされる。」

儒学に毒されずにすんだ少年時代。

「「外国を知ることで、日本を考える」松陰の卓見」

「大阪で知らされた吉田東洋の暗殺」

池田屋事件のころの龍馬。下「」引用。

「池田屋事件がおこる前、龍馬は大阪から幕艦・黒竜丸で江戸へ向った。船内には過激派の浪士二○○人が乗っていた。いずれも龍馬から蝦夷地開拓を説かれて、その気になった者たちである。
 暴走する過激浪士のエネルギーを、蝦夷地開発に振り向けようという龍馬らしい計画で、すでに幕府の了解も取り付け、資金四○○○両も集めていたが、池田屋につづく蛤御門の変、長州征伐などで、幕府はそれどころでなく、せっかくの計画も実現できなかった。」

大久保一翁(忠寛)から海舟と龍馬は見廻組や新選組に用心しろといわれる。下「」引用。

「このため三人とも、薩摩藩の通行手形を持ち、髪も薩摩風に結い直し、龍馬は高杉晋作から贈られた、護身用のアメリカ製六連発のピストルを懐中にしていた。」

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媒酌人・中岡慎太郎。

「京都=鵺(ぬえ)が跋扈(ばっこ)する権力の魔都」

新選組としていたので、今さら今井とできなかった土佐藩? 下「」引用。

「このときの刑部大輔の佐々木高行は土佐藩出身だから、今井の自供が外部に漏れることを、とくに警戒したにちがいない。
 なぜならば土佐藩は、坂本・中岡殺害犯人は新選組であると声高に叫び、報復の意味をこめて、新選組隊長近藤勇を斬首の刑に処している。いまさら今井が、見廻組の仕業だと自供しても困るのである。もし、このことが世間に流れたら、土佐藩の信用にかかわる。」

新選組は龍馬の件だけではないのでは?
--谷はあくまでも、実行犯は新選組だと主張した。

陸援隊・宮川助五郎……。下「」引用。

「同じ土佐藩の陸援隊(代表中岡慎太郎)と海援隊(代表坂本龍馬)は、前者が倒幕派、後者が穏健派として対立してたことは、「鳥取藩慶応丁卯筆記」に記されているが、さらに龍馬の殺害任人は土佐の宮川五郎とその一味、との風評が流れたと書かれている。
 宮川は陸援隊士である。彼は慶応二年(一八六六)九月十二日夜、同志とともに、幕府が三条大橋に建てた制札を引き抜きに行き、新撰組に捕らえられた。斬り合いになって追われた仲間は、薩摩藩邸にの逃げこんで庇護されている。
 宮川は偶然にも、龍馬暗殺の十一月十五日に釈放された。こうした偶然が重なったので、龍馬殺害の県議がかけられたのだろうが、宮川は釈放されてすぐ土佐藩邸に引き取られ、牢に入れられたのだから、アリバイがあるともいえる。
 だが、宮川はすぐに脱走して、白川の陸援隊に入ったという記録もあり、アリバイは成立していないという説もあってややこしいのだ。
 宮川の釈放には、土佐藩と薩摩犯がひそかに裏工作をした形跡があるから、脱走が事実なら土佐藩邸内には幇助者がいたにちがいない。おそらく陸援隊の者だろう。」

赤報隊と西郷隆盛。下「」引用。

「また相楽の赤報隊を利用するだけ利用して、やがては偽官軍の烙印を押して、処刑させてしまった。」

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「龍馬を死に誘った掛軸」坂井洋子・著。
ピストルは龍馬の懐にあり、血だらけになっていたという(『日出新聞』(『京都新聞』の前身)明治39年11月16日)。
風邪をひいていたから土蔵から2階へ移ったに異議をとなる、京都の歴史家・西尾秋風。下「」引用。

「-略-有名な血染めの貼交屏風と掛軸である。
「寒椿と白梅」が描かれたこの掛軸は、龍馬が遭難する直前、文人志士の板倉槐堂(かいどう)が近江屋に龍馬を訪ね、彼の三十三歳の誕生祝いとして贈ったものだという。
 心のこもった掛軸を、龍馬は、土蔵の中で開くことをよしとせず、床の間にかけて鑑賞するため、母屋二階に移った……、それが命取りとなったというのである。」

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