磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

阿片王-満州の夜と霧-

2010年08月23日 | 読書日記など
『阿片王-満州の夜と霧- 新潮文庫 さ-46-8』
   佐野真一・著/新潮社2008年

夜の帝王(甘粕)と阿片王(里見甫)。



実験済みだった……。下「」引用。

「世界史的にも類をみない戦後の高度経済成長は、失われた満州を日本国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。そんな思いが私をきつくとらえていた。戦後高度成長の象徴である夢の超特急も合理的な集合住宅もアジア初の水洗式便所も、すべて満州ですでに実験済みだった。」

しかし、一億総中流などということはなかったろうし、満州はひどい格差社会だっただろう……。

マキノ雅弘と、里見。下「」引用。

「小泉の手配で里見が入った成城の屋敷は、その後、里見とは後述する奇縁で戦中に知り合った映画監督・マキノ雅弘の屋敷となった。マキノは、里見遺児の寄付金名簿にも名前が出てくる。」

里見の阿片資金が、満映理事長の甘粕正彦を通じて東条に流れた……。

--かつての里見は電通の記者だった。
臨城事件を里見が取材したという。

当時の電通。下「」引用。

「当時の電通(日本電報通信社)は、広告専門に特化した現在の態勢とは違い、広告の分野に加えて世界的ネットワークをもつ通信社の機能を兼ねそなえた一大情報機関だった。」

index

甘粕……。下「」引用。

「満州弘報協会元理事で、里見の後の国通代表ともなった森田久(故人)は、甘粕について次のように語っている(「別冊新聞研究」No.6)。
 〈甘粕君は当時、夜の関東軍指令官といわれてとにかく隠然たる勢力をもっていました。ということは、先生はそのころ、阿片の特殊会社か組合をにぎっていましたから……。だから、甘粕君はそれまで--満州国建設までは--相当功労があったでしょうから、それを関東軍はみておったのでしょう。
 それにあぶく銭はどんどんはいるし、大連や上海へいくと、ウィスキーなぞ買いこんできて、関東軍の将校のところにボンボンなげこんでいきよりましたね。-略-」

岸信介……。下「」引用。

「いまは吉林省の医科大学の研究所に変わったその建物の一画の薄暗い展示室には、岸信介をはじめとする「偽満州国」要人の肖像画が飾られ、鹿の粉を粉末にした強精剤など一緒にお土産品として売られていた。」

満州炭坑社員なども、阿片中毒患者となった……。

阿片で、日中戦争を泥沼化させた東条。下「」引用。

「阿片戦争後、中国はもっぱら察哈爾、綏遠産のアヘンで国内需要をまかなっていた。
 東条はそこに目をつけた。-略-東条は察哈爾、綏遠侵攻作戦を強行し、中国との全面戦争のきっかけをつくることになった。アヘンが日中戦争の戦線を拡大し、ドロ沼化させていったともいえる。」

『最後の殿様--徳川義親自伝』から。下「」引用。
「〈藤田くんが上海に現れたのは、麻薬二十万ポンドを上海に密輸したあと始末にきたのである。麻薬は陸軍省に頼まれて、三井物産を通じ、イランから密輸した。二十万ポンドの麻薬はばくだいな量だが、陸軍はこれで戦争資金を調達するため、藤田くんに陸軍大臣の印鑑をおした注文書を発行した。」

元サンシャインシティ常務の妹尾俊男。下「」引用。

「「満州国政府はアヘンを基本的に禁止していましたが、関東軍の隠し財源としては金と阿片しかありませんでした。熱河でとれた阿片を新京に運び、それを夜間、軍用機で盛んに上海に運んでいました。上海の売り捌き先はもちろん里見さんでした」」

軍上層部の機密=天皇の意志に反する。下「」引用。

「上海の弘済善堂は、軍が阿片取引に深入りするのを心配した 昭和天皇が、しばしば「どうなっているのか?」と御下問になるので、里見にその旨を含ませ、軍の隠れミノとするため発足させた。
 塩沢は、阿片工作を密姪した影佐を訪ね「阿片工作は陛下のご意志に背いているのだから、絶対外部に漏らさぬように」と釘を刺したという。」

古海が頼む。下「」引用。

「里見が死んだとき葬儀委員長をつとめた元満州国総務庁次長の古海忠之は、著書の『忘れ得ぬ満州国』(経済往来社・昭和五十三年六月)のなかで、売り捌き先に困った蒙古産阿片の販売を「私の親友里見甫君」に頼んだことを明かしている。古海は甘粕とも格別の親交があった男である。」

毒蛾のような連中。下「」引用。

「上海に拠点を移した里見の許には、その岩田(*幸雄)をはじめ、阿片という蜜に群がる毒蛾のように、いかがわしげな連中ばかりが集まってきた。上海時代に里見と知りあい、“芳名帳”にも連なる許斐(このみ)氏利、児玉誉士夫、笹川良一、阪田誠盛、吉田裕彦(児玉機関副機関長)といった魑魅魍魎の顔ぶれは、さながら、戦前の上海から戦後日本に延びた地下人脈の様相を呈している。」

蒋介石の伯父が利益の半分をとり、四分の一を王兆銘、四分の一の八部を軍部、二分を里見がとったという。里見ならやりかねないという……。下「」引用。

「蒋介石側にも、これと敵対する王精衛側にも、そして日本の軍部にも、アヘン販売で得たあがりを上納する。常識ではおよそ考えられないふるまいである。しかし、里見だったらやりかねないような気がする。-略-」


白州次郎は三井の仕事のとき、飛行機の席をもらったという、三井財閥より強いと里見にいったそういだ。

里見は戦後、左京区吉田神楽岡町に住んだという。
--祗園のお茶屋にも頻繁に通っていたという。

現在の電通と共同通信の母体となる満州国通信社を作った【阿片王・満州のドン】里見 甫







INDEX

index

もくじ





エンタメ@BlogRanking




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。