磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後XXII

2008年03月19日 | 読書日記など
『原爆前後XXII』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1973年

永井隆博士に治療してもらった人の記事がありました。

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「内燃機設計の十年間」という記事がありました。下「」引用。

「清水菊平さんがMSエンジンを完成され、設計の手にも余裕が出来た昭和十年始め頃のことであった。当時、長崎造船所の元良信太郎さんから清水さんに、試験研究費が余っているから何か研究を申し出ないというお話があって、清水さんはこれに対し、直ぐに物になるかどうか判りませんが一つ研究したいと思うものがありますといって、予て腹案として持っておられたコンパウンドディーゼルエンジンの研究試作を申し出られ、それが認可されて試作にかかることになったのが昭和十年三月頃であった。」

陸軍で依頼があったが、海軍により止められたという。下「」引用。

「ところが大東亜戦争の初期のころ陸軍では、高速艇にガソリンエンジンを使っているので、より安全なディーゼルエンジンに換えたいが、従来あるものは重量が重過ぎるので、軽くて馬力の出るディーゼルエンジンは無いものかという話が出た。この話は、NYKの元工務監督で、当時は陸軍に徴用されていた人で、筆者と同窓の田中敏三君が長崎に来て私にされたのであった。そこで私がついこのコンパウンドエンジンの話をしたところ、それを作って呉れということになり、その後、市ケ谷の陸軍補給本部に呼ばれて説明させられ、是非やってくれとの話になった。長崎に帰って上司の鈴木内燃機関課長に報告したところ、早速着手してみようと云うこととなって、設計を進めているうちに、海軍監督官から艦政本部の耳に入った模様で、長崎造船所は海軍の管轄工場だから、陸軍のものは作ってはならぬと言われ、この話は沙汰止みとなって終った。」

“モロトフのパン篭”というのが使われていたという。下「」引用。

「それは昭和十九年八月十日の夜半近くであった。-略-この時の爆弾は“モロトフのパン篭”という焼夷弾で、夜が明けてみると、その破片が工場のあちこちに散らばっていた。幸い不発のものが多く大した被害がなかった。」

これは一種のクラスター爆弾だという。
くわしくはここをクリックしてください。

こんな状態でもあったようです。下「」引用。

「海軍病院といっても、軍医さんは少なく、薬剤も甚だ心細いものだった。ある朝、軍医さんの廻診を待っていると、手のひらが痛掻ゆく仕様がないのでオズオズと包帯を除いてみると、張り付けたガーゼがピクピク動いているので、ジッとはがしてみて吃驚した。どす黒いように見える蛆虫がウヨウヨしていた。そしてこの血肉を喰べて赤黒くなっている蛆虫が動く度に堪えられない痛さを覚えるのだった。生身の躰に蛆虫ができるとは、今迄かつて思いもつかなかったが、三回蛆虫が湧いたことを私は記憶している。それから昼もわれわれの病室は一時、蚊帳を張ることになった。」

永井隆博士が、原子爆弾救護班が発足し、巡回診療。
その時、麻酔もなしに、頭のガラスをとってもらったという。

テレビの番組もあったようです。下「」引用。

「昭和四十五年八月、故永井博士の原子爆弾救護班の人名簿が見つかり、その人名簿の中から発見された僕の名前を頼りに、NBC報道部の方々が久松シソノ看護婦長同伴で私の宅を訪問され、私は久松さんとの久しぶりの再会に当時を思い出し、時を忘れて話しにふけった。」

長崎医大原子爆弾救護報告









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