磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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証言-----ヒロシマ・ナガサキの声(創刊号)

2007年12月25日 | 読書日記など
『証言-ヒロシマ・ナガサキの声(創刊号)』
    長崎の証言の会(代表・鎌田定夫)/
       長崎の証言の会1987年

このような会の雑誌も、いろいろ時代の変化に対応していかないと、運動そのものにも影響していくものかもしれないと思いました……。



中曽根元総理はとても、被爆国の国民の代表とは思えません……。下「」引用。

「今年六月上旬に開かれた西側先進国首脳のベネチア・サミットでは、「平和を維持するにあたり核抑止が引き続き重要であることを再確認」するという。「政治声明」が発表された。しかもこの声明発表にあたって米欧間のまとめ役をしたという中曽根首相が、レーガン大統領に、ソ連の中距離核弾頭弾百発に対抗してアメリカの中距離核弾頭百発をアラスカに配備せよ、と提案したことが後日判明した。」

「長崎原爆と私-長崎工業学校生の証言-」細田喜輔
この文章で永井隆博士に治療してもらったことを書かれてありました。
--8月12日、著者は若杉宅で。
巡回救護がくるという。
--夜8時に、永井博士たちはやって来たという。
永井博士は、側頭部に包帯をぐるぐるまきにしていたという。
--治療は身体に刺さったガラス片をピンセットで抜き取りながら、ヨーチンを塗布。
全身で計110か所も傷口があったという。


従軍看護婦になり、白衣の天使じゃなく「モンペの天使」と言われていた看護婦(現・看護師)さんは書かれています。
--8月1日の空襲で、大学に直撃弾が落ちて三名死亡。そのあと片づけをやっとすませたときに被爆。

永井博士の下で働いた看護師・松本チトエさん。下「」引用。

「当時は空襲がはげしくなり、永井隆先生の指揮で、屋上で担架を運ぶ救護訓練が行われ、友達を乗せて裏山の穴弘法さんまで運ばされたこともありしまた。」

この雑誌の形式になっても、朝鮮の方の文章もいくつかありました。
「運命を狂わせた戦争と原爆-原爆病院のベッドの上に十六年-」(語り)下今順(ペンクンスン)
--16年間も……。いくら、医療費無料でもうれしくありませんね……。

長崎大学医学部附属病院の「生命の水瓶」



「「長崎平和の母子像」建立運動のあゆみ-女たち、母たちは歩きつづける-」鎌田信子

「燃えろ、ナガサキの誓いの火-灯火台建設運動のあゆみ-」宮澤喜代志
--本にはありませんでしたが、あなたの平和の思いをピースプレートにしませんか!というサイトもあります。修学旅行の想い出にいいかもしれない……。
--しかし、もう行くことはボクにはないですね。

「チェルノブイリから一年」上薗恒太郎、「カナダにおける反核運動」ミホ・シボ・新間という文章もありました。










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