磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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シリーズ・戦争の証言2 戦災孤児の記録-戦火に生きた子ら-

2009年04月02日 | 読書日記など
『シリーズ・戦争の証言2 戦災孤児の記録-戦火に生きた子ら-』
   田宮虎彦・編/太平出版社1979年

表紙に書かれてありますね。下「」引用。

「アメリカ軍の空襲にあって、家を焼かれ、親に死に別れた戦災孤児が、敗戦後の数年間は各都市にあふれていた。この子らこそ、戦争のほんとうの犠牲者だった。8歳から14歳までの孤児たち自身が書きとめたこの稀有の記録は、敗戦の真実の姿を鮮明に浮きぼりにする。」




上野駅で暮らしていたという。下「」引用。

「それから待合室にも入れず、上野の駅の中のコンクリートの上に新聞紙をしいてねていました。いつまでもそんなことをしていても、いつか病気になってしまいます。
 上野ばかりにいてもつまらないので、新聞に行ったり、浅草へ行ったりしてその日をくらすようになりました。
 ちょうどその日は八月一五日でした。-略-」

本願寺にいれば……。下「」引用。

「そうやっているうちに、こんどは上野の待合室にねるようになってきました。「ああこんなところにねたりなんかするから、お金なんかとられてしまうのだな」と思いました。が、本願寺にいればわるい人がいて、夜ぼくらがねているすきに、お金でも、新聞を売ってもらったおにぎりまでもとってしまうのですから、いやになって上野になんかねたりするようになったのです。-略-」

お寺も貧しい人たちのために、解放していたようだ……。

刈り込みとは草ではあるまいに……。下「」引用。

「そかはかりこみのたびに石神井学園に行ったり、養育院に行ったりしたからです。」

萩山学園……。下「」引用。

「稲富先生にたすけられて、小倉の尚愛塾につれていかれました。その尚愛塾から東京の萩山学園にきました。ぼくももとはルンちゃんでしたが、いまはその気を一つもおこしませんで、一生けんめいに勉強を運動をしています。
 きみたちみんな、新聞売りや靴みがきをして、えらいものですね。-略-」

英霊(満州で戦死した人)の子供は……。下「」引用。

「ぼくは、三つのときに、お父さまに死に別れました。父は満州事変で戦死したので、それからは毎日お母さんといっしょに暮らしましたけれど、ちようど五つのとき、ついに心臓病でお母さんが死んでしまいました。それからは親類のおばさんのところでそだちました。」

少年の家」とフラナガン神父……。下「」引用。

「わたくしはいま「戦争と平和」ということをかいていますが、これからの国は、平和で、戦争をしない国でなければならないと思います。このあいだも「アメリカ」から「ララ」をいただきました。また「ボーイス・タウン」に手紙をだしました。五月二二日フラナガン神父さんをむかえました。お話をききました。やはり、神父さんも、日本を平和な国にして、少年の町と、少年の村と仲よくし、少年の町、少年の村をつくり、りっぱな日本の国にしていきたいと考えていると思います。」

【映画】少年の町

映画があったという……。下「」引用。

「ぼくは「少年の町」の映画を見て、ホーワイテのおもしろいところやかなしいところ、少年の町の子どもたのりっぱなところや神父さんのえらいところにかんしんしました。小さい子どもがじどうしゃにはねとばされたときのホーワイテのかなしさや、やさしい心を思うとき、ぼくは荻山もあの「少年の町」の子どもたちのようになったらいいとかんじました。-略-」

孤児がいたことは、戦争の中でも大きなこととの一つではないだろうか……。下「」引用。

「戦後二五年、日本人は、戦争も敗戦の苦しみも忘れ去ろうとしている。だが、それは忘れてはならぬことであり、戦後に成長した次代の日本人のすべてにも、はっきりとその真実を確認させておねかばならぬことである。敗戦直後、わたくしも編集に参画したこの『戦争孤児の記録』が、現在の時点で再刊されることは、まことに意義深いことといわねばならない。」






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