『ナチと原爆-アルソス:科学情報調査団の報告-』
サムエル・ハウトスミット(著)/
山崎和夫、小沼通二(訳)/海鳴社1977年
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「第二次大戦の末期、連合軍は極秘裡に科学者と軍人とからなる一団を欧州戦線に派遣した。その最大の目的は、ナチが原爆を開発したかどうかを探ることだった。本書はこの調査団の科学者代表だった著者の回想録である。
核分裂の原理を発見したのはオットー・ハーンであり、連鎖反応炉の理論を最初に発表したのもドイツ人であった。それになによりも、ドイツにはハイゼンベルクがいる! ヒットラーが豪語している秘密兵器の存在とは、原爆のことではないのだろうか……。
戦火の中を、まっ先に研究所を押えて科学者を尋問する中で、数かずの事実が浮びあがってくる。ナチに協力した科学者たちの弁明。敵・味方に別れたかつての同僚との会見、スパイの動向、「広島」の衝撃、人体実験など話題にこと欠かない。だが、科学と戦争、科学者と社会を考える重要な素材を提供している点、本書は読書以上の問題を投げかけていよう。」

読書は読書だと思いますが……。
--実社会に大きく関わる問題ですね。
こんなひどい社会だから、このような本を読んで考えていただきたいものです。
--今の社会とも無関係というわけではありませんし……。
最初のアルソス調査団。下「」引用。
「アルソス調査団、ドイツ流にいえばウラン調査団とでも呼ばれそうなものであるが、その最初のものは、イタリアにグローヴス将軍が派遣した科学者と軍人からなる小さなグループであった。彼らはナポリと南部イタリアの大学で集めた資料をもって、ローマが陥落する前に帰ってきた。予期されたように、彼らの収穫は科学的観点からすればたいした意味をもたないものだった。しかしながら、このような調査団が可能であるという事実、特に彼等の作戦の展開が成功していたという事実が、ワシントンで一つの結果を産み出した。それは、フランスへの侵攻に際して、すべての戦時科学研究を対象とし、かつ陸・海軍・ヴァンネヴァー・ブッシュの科学研究開発局、およびグローヴス将軍管轄下の諜報部の後援によるずっと大規模な調査団の派遣が決定されたことである。」
ドイツでは小規模な研究だったという。下「」引用。
「全ドイツ・ウラン組織は、こっけいなほど小規模なものであることは歴然としていた。ここには研究所の中心集団があり、それらは全部合わせても小さな地下洞穴と小さな繊維工場の一郭という古い醸造所の教室だけだった。研究所の設備は確かによかったが、しかしわれわれがアメリカでやっていたものに比べれば、それはまだ三流どころのしろものだった。われわれの政府がアルソス調査団に使った金額のほうが、ドイツがその全プロジェクトに投じた金額を上廻るのではないかという気がするほどだった。」
主要標的はやはりハイゼンベルク。下「」引用。
「ドイツ物理学者の中の主要標的であるハイゼンベルクはまだみつかっていなかった。ヘッヒンゲン線量の数日前に、彼はバヴァリアにいる家族と一緒になるために自転車で脱出したのだが、バヴァリア地方はまだドイツ側の手中にあった。彼は引き払う前に、すべての関連物資を隠し、それらのありかを漏らさないように厳しい指示を与えておいた。しかし彼の用心とその指示はむだだった。われわれは非常に注意深く埋めてあった物資を発見したが、AP通信のハイゼンベルクとのインタビューによれば、それらは全部でウラン二トン、重水二トン、石墨一○トンにのぼった。
発見した書類は、われわれがずっと探し求めていた技術的な情報を与えてくれた。しかし私はなおいくつかの書類が欠けているように感じた。ハイゼンベルクがウランだけを隠して研究の重要な結果を隠さなかったとは、私には信じられなかったのだ。私はそのことを考えれば考えるほど、いくつかの重要種類が欠けているにちがいないとの確信が深まっていった。」
ヒロシマのニュースを聞いたときの彼ら。下「」引用。
「抑留されていたドイツ人科学者たちが広島のニュースを初めて聞いたのは一九四五年八月六日の夕食のことであった。彼らの最初の反応はそれをまったく信用しないことであった。あり得ないことだと彼はいいあった。ともかく彼らは自らウラン問題について数年間働いてきたのであり、その結果原爆をそのような短時日に作り出すのはむずかしすぎることを証明したのであった。だのにどうしてアメリカ人どもにそれがやれるというのか? それに理屈はあわないことだった。」
ヒトラーに与えないと彼らは考えた。下「」引用。
「彼らの中の数人は、もしたとえわれわれがもっとも政府の援助を受けていたとしても、われわれはヒットラーにこのようなひどい武器を決して与えはしなかっただろうという議論をした。これフォン・ラウエとハーンについて本当だろうけれども、それ以外の者についてそれがあてはまるかどうか非常に怪しいものである。」
ハイゼンベルクの誤解。下「」引用。
「広島の第一報を聞いてからまる一日以上たってようやくハイゼンベルクは、彼とその同僚たちが原爆の根本原理について完全に誤解していたことを理解し始めたのであった。そのときになってようやく彼は原子炉が材料--プルトニウム--を作るためにだけ用いられたのであり、この新しい物質から爆弾が造られたのだということを理解したのだった。炉そのものを爆弾にしようとは一度も意図されたことはなかったのだ。」
広島の原爆はウラン型でしたね。
「失敗したから真実」とゆがんだ見方をする著者。下「」引用。
「数人の若者組みが彼らの失敗を見事に合理化する方法を思いついたのはちょうどこの時であった。彼らは原始的爆発物を作ろうとしたことは一度もなかったということによって、その失敗はまさしく彼らの利点にすり変えようとしたのであった。今まで、秘密の通信のごくわずかなものだけしかこの言葉について触れていない。彼等はウラン機関について仕事をしてきただけだと強調し、そして彼らはそれが直ちに爆弾に導くものであると考えたことを都合よく忘れたのだった。彼らは世界に対して、ドイツ科学は原爆のような恐ろしい物について仕事をすることを承諾したことは決してなかったと告げようとしたのだった。
こうしてこれがドイツ科学の新しいテーマソングとなった。「ドイツはウラン問題について平和目的に対してだけ仕事をしてきたが、連合国はそれを破壊の目的のためにやってきた」と。そのために少なくともアルソス調査団員にとっては、ハイゼンベルクが広島からほとんど二年後になって、AP通信の記者に、「私が作り上げようとしていたドイツの原子炉は機械に対するエネルギーを作り出すためで、爆弾のためではなかった。……世界が今日知っているように、爆発物であるプルトニウムは、そのような原子炉の中で製造された」と話したときに、それは別に少しも驚きではなかった。」
そして調査団の終了。下「」引用。
「第二次アルソス調査団が組織された。記録によれば、団員中の科学者は、七月二十六日現在十一名、八月末までは三十三名となっている。その後増減はあったが、ヨーロッパ戦終結時には、合計百十四名(将校二十八、兵員四十三、科学者十九、民間人五、防諜隊員十九)であった。アルソスの解散は、一九四五年十月十五日である。」
このナチス・ドイツが製造していないというニュースは、グローブスによって握りつぶされたという表現の映画はありましたね。
ロス・アラモスの科学者でさえ、ほとんどの人も投下することに反対していた。
--ハイゼンベルクたちが、あのような態度であったとしても、決して失敗したからではないとボクは思う。
『原爆神話』とは、つまり、性悪説にたった思想でもあるように思えた。
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--そして、それにつながる抑止論もまた同様であろう……。
もはや、精神の内にあっては、戦争をしているも同然。
リフトン的にいえば、『平和の内の戦争!』だろうか?
そして、個人のレベルにもどせば、『生命のうちの死』そのものが、核兵器保有だろう。
ヒロシマ・ナガサキは被害者である。
--いじめられっ子が問題なのではなく、いじめっ子が問題(原因)なのだ。
差別主義の学者はそんなことも理解していないだろう……。
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サムエル・ハウトスミット(著)/
山崎和夫、小沼通二(訳)/海鳴社1977年
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「第二次大戦の末期、連合軍は極秘裡に科学者と軍人とからなる一団を欧州戦線に派遣した。その最大の目的は、ナチが原爆を開発したかどうかを探ることだった。本書はこの調査団の科学者代表だった著者の回想録である。
核分裂の原理を発見したのはオットー・ハーンであり、連鎖反応炉の理論を最初に発表したのもドイツ人であった。それになによりも、ドイツにはハイゼンベルクがいる! ヒットラーが豪語している秘密兵器の存在とは、原爆のことではないのだろうか……。
戦火の中を、まっ先に研究所を押えて科学者を尋問する中で、数かずの事実が浮びあがってくる。ナチに協力した科学者たちの弁明。敵・味方に別れたかつての同僚との会見、スパイの動向、「広島」の衝撃、人体実験など話題にこと欠かない。だが、科学と戦争、科学者と社会を考える重要な素材を提供している点、本書は読書以上の問題を投げかけていよう。」

読書は読書だと思いますが……。
--実社会に大きく関わる問題ですね。
こんなひどい社会だから、このような本を読んで考えていただきたいものです。
--今の社会とも無関係というわけではありませんし……。
最初のアルソス調査団。下「」引用。
「アルソス調査団、ドイツ流にいえばウラン調査団とでも呼ばれそうなものであるが、その最初のものは、イタリアにグローヴス将軍が派遣した科学者と軍人からなる小さなグループであった。彼らはナポリと南部イタリアの大学で集めた資料をもって、ローマが陥落する前に帰ってきた。予期されたように、彼らの収穫は科学的観点からすればたいした意味をもたないものだった。しかしながら、このような調査団が可能であるという事実、特に彼等の作戦の展開が成功していたという事実が、ワシントンで一つの結果を産み出した。それは、フランスへの侵攻に際して、すべての戦時科学研究を対象とし、かつ陸・海軍・ヴァンネヴァー・ブッシュの科学研究開発局、およびグローヴス将軍管轄下の諜報部の後援によるずっと大規模な調査団の派遣が決定されたことである。」
ドイツでは小規模な研究だったという。下「」引用。
「全ドイツ・ウラン組織は、こっけいなほど小規模なものであることは歴然としていた。ここには研究所の中心集団があり、それらは全部合わせても小さな地下洞穴と小さな繊維工場の一郭という古い醸造所の教室だけだった。研究所の設備は確かによかったが、しかしわれわれがアメリカでやっていたものに比べれば、それはまだ三流どころのしろものだった。われわれの政府がアルソス調査団に使った金額のほうが、ドイツがその全プロジェクトに投じた金額を上廻るのではないかという気がするほどだった。」
主要標的はやはりハイゼンベルク。下「」引用。
「ドイツ物理学者の中の主要標的であるハイゼンベルクはまだみつかっていなかった。ヘッヒンゲン線量の数日前に、彼はバヴァリアにいる家族と一緒になるために自転車で脱出したのだが、バヴァリア地方はまだドイツ側の手中にあった。彼は引き払う前に、すべての関連物資を隠し、それらのありかを漏らさないように厳しい指示を与えておいた。しかし彼の用心とその指示はむだだった。われわれは非常に注意深く埋めてあった物資を発見したが、AP通信のハイゼンベルクとのインタビューによれば、それらは全部でウラン二トン、重水二トン、石墨一○トンにのぼった。
発見した書類は、われわれがずっと探し求めていた技術的な情報を与えてくれた。しかし私はなおいくつかの書類が欠けているように感じた。ハイゼンベルクがウランだけを隠して研究の重要な結果を隠さなかったとは、私には信じられなかったのだ。私はそのことを考えれば考えるほど、いくつかの重要種類が欠けているにちがいないとの確信が深まっていった。」
ヒロシマのニュースを聞いたときの彼ら。下「」引用。
「抑留されていたドイツ人科学者たちが広島のニュースを初めて聞いたのは一九四五年八月六日の夕食のことであった。彼らの最初の反応はそれをまったく信用しないことであった。あり得ないことだと彼はいいあった。ともかく彼らは自らウラン問題について数年間働いてきたのであり、その結果原爆をそのような短時日に作り出すのはむずかしすぎることを証明したのであった。だのにどうしてアメリカ人どもにそれがやれるというのか? それに理屈はあわないことだった。」
ヒトラーに与えないと彼らは考えた。下「」引用。
「彼らの中の数人は、もしたとえわれわれがもっとも政府の援助を受けていたとしても、われわれはヒットラーにこのようなひどい武器を決して与えはしなかっただろうという議論をした。これフォン・ラウエとハーンについて本当だろうけれども、それ以外の者についてそれがあてはまるかどうか非常に怪しいものである。」
ハイゼンベルクの誤解。下「」引用。
「広島の第一報を聞いてからまる一日以上たってようやくハイゼンベルクは、彼とその同僚たちが原爆の根本原理について完全に誤解していたことを理解し始めたのであった。そのときになってようやく彼は原子炉が材料--プルトニウム--を作るためにだけ用いられたのであり、この新しい物質から爆弾が造られたのだということを理解したのだった。炉そのものを爆弾にしようとは一度も意図されたことはなかったのだ。」
広島の原爆はウラン型でしたね。
「失敗したから真実」とゆがんだ見方をする著者。下「」引用。
「数人の若者組みが彼らの失敗を見事に合理化する方法を思いついたのはちょうどこの時であった。彼らは原始的爆発物を作ろうとしたことは一度もなかったということによって、その失敗はまさしく彼らの利点にすり変えようとしたのであった。今まで、秘密の通信のごくわずかなものだけしかこの言葉について触れていない。彼等はウラン機関について仕事をしてきただけだと強調し、そして彼らはそれが直ちに爆弾に導くものであると考えたことを都合よく忘れたのだった。彼らは世界に対して、ドイツ科学は原爆のような恐ろしい物について仕事をすることを承諾したことは決してなかったと告げようとしたのだった。
こうしてこれがドイツ科学の新しいテーマソングとなった。「ドイツはウラン問題について平和目的に対してだけ仕事をしてきたが、連合国はそれを破壊の目的のためにやってきた」と。そのために少なくともアルソス調査団員にとっては、ハイゼンベルクが広島からほとんど二年後になって、AP通信の記者に、「私が作り上げようとしていたドイツの原子炉は機械に対するエネルギーを作り出すためで、爆弾のためではなかった。……世界が今日知っているように、爆発物であるプルトニウムは、そのような原子炉の中で製造された」と話したときに、それは別に少しも驚きではなかった。」
そして調査団の終了。下「」引用。
「第二次アルソス調査団が組織された。記録によれば、団員中の科学者は、七月二十六日現在十一名、八月末までは三十三名となっている。その後増減はあったが、ヨーロッパ戦終結時には、合計百十四名(将校二十八、兵員四十三、科学者十九、民間人五、防諜隊員十九)であった。アルソスの解散は、一九四五年十月十五日である。」
このナチス・ドイツが製造していないというニュースは、グローブスによって握りつぶされたという表現の映画はありましたね。
ロス・アラモスの科学者でさえ、ほとんどの人も投下することに反対していた。
--ハイゼンベルクたちが、あのような態度であったとしても、決して失敗したからではないとボクは思う。
『原爆神話』とは、つまり、性悪説にたった思想でもあるように思えた。

--そして、それにつながる抑止論もまた同様であろう……。
もはや、精神の内にあっては、戦争をしているも同然。
リフトン的にいえば、『平和の内の戦争!』だろうか?
そして、個人のレベルにもどせば、『生命のうちの死』そのものが、核兵器保有だろう。
ヒロシマ・ナガサキは被害者である。
--いじめられっ子が問題なのではなく、いじめっ子が問題(原因)なのだ。
差別主義の学者はそんなことも理解していないだろう……。





