磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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「戦争と平和」少年少女の記録8 一人ぼっちの焼けあと-傷ついた十代の記録-

2009年04月03日 | 読書日記など
『「戦争と平和」少年少女の記録8 一人ぼっちの焼けあと-傷ついた十代の記録-』
    秋山正美・編/日本図書センター1993年

この巻の収録作品
『犯罪少年の記』坪田譲治・平間孝三共編



モルヒネを使用する父……。下「」引用。

「もともと、父は乱暴で仕方がないということを、伯父の家にいるころ、聞いていました。最初やさしかったのが、考えてみれば不思議なくらいだったのです。
 父の病気は気管支(きかんし)が悪く、いつも注射を自分でうっていました。その注射にモルヒネなどを使っていました。あまり注射をし過ぎたときなど、頭がへんになった人のようになるときが、たびたびありました。-略-」

薬物依存症では、すさまじいものがあることでしょう……。
--アルコールも薬物依存症にふくまれるもので、恐ろしいものです。
まわりの子どもにとっても、大人にとっても……。

司法主任……。下「」引用。

「刑事は、一般の人々と同様の服装で、犯罪の捜査活動をおこない、容疑者を捕らえる警察官。司法主任は、容疑者を法律に従って、どのように取り扱うかを判断する責任者の警察官。」

夜学にかようようになって悪くなったという……。下「」引用。

「川崎の日本内燃機の会社に世話してもらい、夜は学校へ通いました。学校へ通いだしてから、わたしは、だんだん、悪くなりました。-略-」

ダンサーをしていたという……。下「」引用。

「わたしは、ダンサーになったら、お金がもうかるのだろうと思って、病院生活を六か月でやめて、十七歳春、鶴見の「サロン・ツルミ」のキャバレーで、進駐軍相手のダンサーとして働きました。
 昼は、進駐軍の兵舎で食堂の給仕をし、夜は、キャバレーのダンスホールで働きました。ホールで、踊ったりはねたりすると、とてもおなかがすいて、月給ではとてもたりません。そこで、わたしは、つい進駐軍の物をぬすみ、その結果、新少女苑に来る身の上になったのです。」

「原子爆弾で父を失う」というタイトルの広島少年院に入っている少年の作文がありました。

芸者屋に入れられてたという人もいる……。下「」引用。

「おばあさんのところから芸者屋へ預けられて、そこでは、学校へも行かずに遊んでばかりいましたが、やっぱり、病気があるためにいやがられ、帰されることになってしまいました。-略-」

「敗戦後の満州」と辛い思い出をかく少年も……。

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平岡孝三とは……。下「」引用。

「平岡孝三というのは、本を著すときのペンネームで、この人の本名は本多兵三郎(ほんだへいざぶろう)といいます。愛知県岡崎市に生まれ、司法省(現在の法務省)が担当してた少年少女の保護や犯罪者の更生(こうせい)(心を入れかえて、正しい生きかたができるようにすること)のために、生涯の大半をささげた人物で、役所を退いてからは、故郷に帰り、岡崎短期大学の講師を務めていました。一九八○年ごろ、亡くなったということです。-略-」

「いちばん多い盗みと親のいない子の生活」下「」引用。

「-略-四十四人の書いた作文のほとんど全部に共通しているのは、筆者が、自分は他人のお金や品物を盗んだ、と認めている点です。四十四人中の二十七人が、盗みをしたことをうちあけています。この二十七という数字にはお金を持ち出して家出した、というような例は入っていません。-略-「ぬすんだ飯とも知らず、弟がうれしそうに食べるのを見て、苦しかった。また、うれしかった。」というあたりは、現代の少年少女には理解しにくいでしょう。-略-」








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