磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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誰が坂本龍馬をつくったか

2010年01月31日 | 読書日記など
『誰が坂本龍馬をつくったか』
   河合敦・著/角川SSコミュニケーションズ2009年

裏表紙に書かれてあります。下「」引用。

「土佐の郷士出身の坂本龍馬が、なぜ日本を動かすほどの偉人となりえたのか。-略-勝海舟、河田小龍、横井小楠、松平春嶽といった当代きっての知識人との交流があった。そして彼らは治部の考えや夢を龍馬の語り、龍馬はそれを実現させていった。彼らが坂本龍馬という男をつくつたと同時に、彼らにできないことを龍馬に託したのだった……。」



「はじめに」で書かれてあります。下「」引用。

「-略-はじめから偉大な人間なんて、この世には存在しない。
偉人というものは、人によってつくられるのである。」

そういう意味のつくられたという意味でしょうね……。

「夜空に流れた火の玉」 下「」引用。

「黒船が浦賀沖に停泊していたときの深夜、江戸湾上空ににわかに閃光が走った。真っ赤な楔形(くさびがた)の尾を持った巨大な青色の発光体が、夜空を切り裂いて北東に向かって一直線に飛び、水平線へと消え去ったのである。」

乙女の服を着て歩いた龍馬。下「」引用。

「あるとき龍馬が土佐城下の鏡川に夕涼みに出かけた。すると、すれ違う人がみな、龍馬を見て笑う。気にせずに歩いていると、途中で出会った友人が、「龍馬、おまんの服はなんじゃ」と呆れて言った。-略-しかも、龍馬はその後もその格好のまま散歩を続けたというのだ。」

龍馬には、最高の時が来るまでじっと待つ度量があったという……。

怒る龍馬。下「」引用。

「幕府が文久三(一八六三)年に発令した攘夷決行命令にしたがって、長州藩は下関を通過する外国の艦船が砲撃した。怒ったアメリカとフランスの艦船が仕返しにやってきて、下関の砲台を破壊。フランス軍は下関に上陸して長州藩を震撼させた。この事件のさなか、幕府が下関で被弾した列強の艦船を、江戸で修理してやっているとの噂が流れた。これに龍馬が怒っているのである。
 この噂に関しては、龍馬の師・勝海舟も日記にこう書き残している。
「長州で戦った外国船を横浜で修復させるとともに、負傷者を療養させるなど、外国人に手を貸しているのは、幕府保守派が外国人を利用して薩長両藩を討たせるためだとする専らの風評だ」-略-」

「天下一の大荒くれ先生」=姉・乙女。下「」引用。

「「天下一の大荒くれ先生」とは、自分を見捨てずに育ててくれた乙女本人のことである。ずいぶんな言いようだが、龍馬なりの姉への敬愛の情が込められている。」

河田小龍自身が『藤院略話(とういんりゃくわ)』で龍馬との出会いを書いているという。

饅頭屋の長次郎。下「」引用。

「長次郎の自宅は坂本邸から一五分ほどのところにあったので、暇さえあれば訪ねて行って龍馬と国事を語り合い、坂本家の蔵書の軍書などを読みふけったという。
 やがて龍馬の江戸の土産話に刺激されたのか、長次郎も江戸に出て一流の学問を修めたいと思うようになる。だが一介の饅頭屋では遊学費を出す余裕はない。」

「刀の柄(つか)売って遊歴を続ける」龍馬。下「」引用。

「-略-文久二(一八六二)年六月一一日、大坂に姿をあらわし、翌月、京都に立ち寄っている。ここで江戸からの帰郷途中、病気になって京都滞留を余儀なくされていた同志の大石弥太郎と再会する。
 このとき龍馬の刀には柄頭がなく、白い布でぐるぐる巻いてあったという。大石が不審に思って聞くと、「売った」とこともなげに答えたそうだ。脱藩後、龍馬は金銭的に苦労しながら九州を遊歴していたわけだ。-略-」









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