磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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創立七拾周年記念誌

2008年11月05日 | 読書日記など
『創立七拾周年記念誌』
   加納哲雄・編/広島女学院1956年

創立70周年のなかに広島原爆があります。
--復興することも書かれてあります。



「序文」に書かれてあります。下「」引用。

「本誌は、広島女学院創立七十周年を記念して、本学院が明治十九年(一八八六年)広島の地に創設されて以来、今日に至るまでの歴史的な歩みを略述すると共に、その背後に孜々として働いた人々のあったことを綴ったものである。
 基督教を基礎にした女子の人格教育への夢を抱いて、その実現のために心身を砕き全生涯を献げた恩師や先人の辿った道は、長い茨の道であったけれども、彼らは信仰によって励まされ、慰められ、強められ、且つ導かれて来たのである。本学院の標語「われらは神と共に働く者なり」とは、実にこれらの人々の体験そのものからにじみ出た確信であったと言えるであろう。-略-」

軍事色にそまった時代が……。下「」引用。

「広島女学院の刺の道は、昭和十一年日支事変より始まる。平和の学都と云われた広島は、忽ち軍色に塗り替えられて仕舞った。出征軍人は宇品港より、軍馬と共に大陸へ大陸へと、これを見送る人々で戦時気分。又市内旅館は各地より集結する軍人で常に一パイ。民家もまた徴発。船団の都合では三人四人が長きは数日間の滞在で、一家を挙げての饗応に心身疲れ切る状態が続いた。所謂銃後の奉仕に明け暮れるのである。」

外人教師に尾行がついたという。下「」引用。

「外人教師と護衛兵 この渦中にあって女学院も時局を認識し、奉仕に勉めたことは勿論である。-略-ステーションや車内では、トッコウ憲兵の訊問が行われた。軍事施設は勿論、宇品方面の出入は厳禁された。「私達には護衛兵がついて居るから安全ね」とは、或る外国人先生のジョークならぬ皮肉であった。」

そして、「外人教師の引揚げ」。下「」引用。

「女学院を愛するが故に、善意をもって忍ぶべきを忍んで来られた外人先生方にも、終に来るべき時が来た。時局は愈々急迫して来るので、米本国ミッション・ボードから、総引揚げすべしとの飛電が届いた。時に昭和十六年六月、広島女学院にとっては、歴史始まって最悪の時であった。-略-」

原爆で……。下「」引用。

「前文の元吉理事回顧録によって見られる如く、過ぐる十年間を文字通り受難期として、あらゆる苦難に耐えて来た学院も、終に受難の極点として、かの昭和二十年八月六日の原爆投下と言う不可抗力的な破壊行為の前に、あえなくも一切の物を焼かれ、多数の教職員学徒を殺され、一時は学院は文字通り全滅してしまったのである。
 この廃燼の中より奇蹟的に命拾いをした数名の職員の中に、当時の高等女学校教諭で現在高等学校中学校副校長小田切快三氏がある。編集委員会は氏に依頼して、その生々しい原爆体験記を執筆して頂いた。これ又得難い文献として本誌に収め、永久にこの悲惨事を後世に伝えたい。-略-」

「第七章 復興期 -略- --原子砂漠に学院の再建--」









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