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従軍慰安婦 岩波新書 新赤版 384

2010年07月08日 | 読書日記など
『従軍慰安婦 岩波新書 新赤版 384』
   吉見義明・著/岩波書店1995年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「「日本が過去にやったことを、日本や韓国の若者に知ってほしい」--日本政府の謝罪と補償を求めて提訴した韓国人元従軍慰安婦の一人はこう語った。軍慰安所はいつどこにつくられ、日本軍・日本政府はどのように関与したのか。また実態はどうであったか。関係公文書を丹念に収集・分析した著者が、回想や聞書をあわせて、全体像を描き出す。」



元軍人なら……、そして映画も……。下「」引用。

「従軍慰安婦の存在それ自体は、戦争に行ったことのある元軍人ならだれでも知っていることであった。敗戦直後の四七(昭和二二)年、作家の田村泰次郎は、朝鮮人慰安婦をテーマにした『春婦伝』という小説を書き、これは、のち映画化もされている。だが、この問題が女性に対する重大な人権侵害であり、国家犯罪・戦争犯罪につながる性格をおびているものであったことを、わたしたちはどれだけ気づいていただろうか。-略-」

春婦伝(1965) - goo 映画春婦伝(1965) - goo 映画

資料確認……。下「」引用。

「実際、わたし自身、留学まえに、日本軍が軍慰安所設置を指示した公文書を防衛庁防衛研究所図書館で確認していた。金学順の発言を聞いて、あらためてわたしは同図書館に通い、関連文書を探した。そして、湮滅を免れた六点の証拠を発見し、新聞に発表することができた(『朝日新聞』九二年一月一一日)。なぜ湮滅されたはずの資料がのこっていたのだろうか。これらは、敗戦直後、空襲を避けるために八王子の地下倉庫に避難させておいたため、連合軍到着までに焼却がまにあわなかった四二(昭和一七)年までの資料群であった。連合軍に接収されアメリカにわたり、のちに返還されて防衛庁防衛研究所図書館に保存されていたのだが、この資料群の中に慰安婦関係の資料があるとはだれも思わなかったために、見過ごされていたのである。-略-」

記録が残る最初は上海……。下「」引用。

「従軍慰安婦や軍慰安所の制度はいつつくられ、どのように広がっていったのだろうか。序でのべたように、のこされた資料が氷山の一角であるだけに、これを正確に把握するのはむずかしい。現在までのところ、確実な資料によって確認される最初の軍慰安所は上海でつくられた。-略-第一次上海事変である。これはこの年三月につくられる傀儡国家「満州国」の建国工作から欧米諸国の目をそらすためであった。この「事実」のとき、上海に派遣された日本陸海軍が軍慰安所を設置した。」

公娼廃止の中国、日本のお家芸“抜け道”。下「」引用。

「上海では、中国政府が公娼廃止に取り組んでいたので、日本外務省も体面上これに協力せざるをえなくなり、二九年、貸座敷(貸席)制度を廃止していた。しかし、日本は実際には抜け道として料理店酌婦制度をつくっており、事実上の公娼制が維持されていた。-略-」

軍直営。下「」引用。

「上海派遣軍の兵站病院に勤務していた麻生徹男軍医の回想でも、三八年初め頃、上海楊家宅にできた慰安所は軍直営であった(麻生『上海より上海へ』)。彼はこのとき、約一○○名の慰安婦の性病検査をしているが、その八割は朝鮮人、二割は日本人だった。この頃から、内地や朝鮮で集められた慰安婦が続々と到着しはじめたのである。」

陸軍経理学校で教えたという。下「」引用。

「なお、三九年頃には、陸軍経理学校で慰安所の開設の仕方を教えていたという証言がある。陸軍主計将校であった鹿内信隆(戦後産経新聞・フジテレビ社長)は、対談で三九年四月入校から九月卒業までの陸軍経理学校時代の思い出をつぎのようにのべている。
 -略-こんなことを想定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。-略-(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻)」

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組織的だった……。下「」引用。

「公文書で「ピー屋」(ピーとは慰安婦をさす隠語)という用語を使うわけもないから、「慰安施設設置要綱」とか「特種慰安施設設置要綱」とでもいったのだろうが、陸軍経理学校で教えていたということは、軍慰安所設置は一般に考えられているよりももっと組織だっていたことになる。なお、鹿討主計中尉は、アジア太平洋戦争下に、陸軍需品本廠から東京葛飾の国際護膜工業(コンドームを扱うオカモト株式会社の前身)に派遣されて、コンドームの生産を指導することになる。」

日本人慰安婦の場合。下「」引用。

「日本内地から慰安婦を送ろうとすれば、二一歳以上で、しかも売春婦の中から集めるほかなかった。警察がそのように制限していたからである。先にふれた一九三八年二月二三日の内務省保局長の通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」(『資料集』5)には、つぎのように規定されていた。
 -略-」

「特殊看護婦」と誘う……。下「」引用。

「軍慰安所は海軍直営だった。慰安婦は「特殊看護婦」と呼ばれ、軍属扱いだった。契約は一年半で、働いたお金は四割が自分のもの、六割が海軍のものとなり、死ねば靖国神社に入れてもらえるといわれたという。若い女性の愛国心を利用した動員であったいえようか。当時、彼女は満一八歳であった。」

売春婦でなくとも……。下「」引用。

「副官の命をうけた当番兵から「慰安婦になるなら面倒をみてやる、ほかの者とも相談するように、と副官がいっておられるが、どうか。衣食住の保証付きで、それならもちろん、トラックで運んでもらえるよ」といわれたという(磯崎『生ある限りルソンへ』)。彼女たちはただちに拒否したが、売春ではない日本人でも慰安婦になることを要求される場合があったのである。」

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戦後の進駐軍のための慰安所。右翼の積極的介入。笹川良一。下「」引用。

「大阪府特高一課の内偵報告「旧国粋同盟の動静」(九月一九日)はつぎのようにのべている。
 旧国粋同盟に在りては、総裁笹川良一の実弟笹川良三を社長に、旧幹事岡田多三郎、松岡三次を総務として連合軍慰安所に、アメリカン倶楽部を大阪市南区九郎右門町、元みかさや飲食店跡に開設し、昨十八日より開所せり。(前掲『敗戦時全国治安情報』第六巻)」

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