磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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いのちの重さ伝えたい-沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ-

2009年10月11日 | 読書日記など
『いのちの重さ伝えたい
  -沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ-』
    真鍋和子・著/講談社2004年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「一九七○年代までは、沖縄戦を知る手がかりといえば、写真によるものばかりでした。生の映像フィルムを見ることなど考えられなかったのです。
 ところが、八○年代に入り、アメリカへ交換留学した人たちの調査によって、アメリカ国立公文書館に、沖縄戦を撮影した実写フィルムがたくさん保管されていることがわかりました。
「このフィルムを私たちが買い取り、全県民の財産にしようではないか。」
--こうして、一九八三年(昭和58年)に、「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」が誕生しました。」



餓死した母……。下「」引用。

「沖縄戦で目も見えなくなっていた母は、壕の中で餓死しました。」

……買い取る。下「」引用。

「一九八四(昭和五十九)年五月一日に、アメリカ国立公文書館から一二本の沖縄戦未公開フィルムが事務局に到着しました。長さにして九六○○フィートです。いずれも保存状態がよく、那覇飛行場が破壊される場面や、日本兵の降伏するようす、戦災孤児を治療するアメリカ兵などのシーンがあり、四十年前の戦争を生々しく伝えています。
 ところが、買い取ったフィルムというのは、音声は出ない、白黒のラッシュフィルムです。北部のシーンがあったらと思ったら、すぐにそのあと、南部を撮影したものなど、だれもがわかりやすいというものではありせんでした。
「解説が必要だが、とにかく、大勢の人たちの力で購入したフィルムだ。すぐに上映会をやろう。」
 一九八四年五月十六日、那覇市民会館大ホールで、到着したすべてのフィルムを一気に公開する上映会を催しました。-略-」

歌手のカンパ。下「」引用。

「二○○二年現在で、購入したタイトル数は二六○。一一万フィートにもおよぶといいます。
「歌手の人ちが県庁の庭でうたい、カンパを持ってきてくれたこともたびたびでした。フィルムを県民のほんとうの財産にするためには、どうしたらいいのか、上映だけではなく、戦争の犯罪性と、平和の大切さをどう伝えあえるのか、いつも考えています。募金は最大限、活かすようにと思ってきました。」」

国債、何よりも軍部を優先させる戦争体制。下「」引用。

「国や県は戦争の費用を調達するために、「国民貯蓄増強運動」を推し進めました。人々は財産に応じて、国の発行する戦時国際を買わねばならなくなり、かんざしや指輪などの金属類を供出しなければなりませんでした。食料や衣類も配給制となり、農作物や牛や馬などの家畜の売買も自由にできなくなりました。
 朝から晩まで、暮らしのすべてにわたり、何よりも軍部を優先する、戦争の体制一色に染められていったのです。」

研修一日で看護……。下「」引用。

「南風原(はえばる)陸軍病院には、瀕死の重傷患者が続々と運びこまれます。
 一○○人、二○○人とふえていく負傷者たちの世話は、わずか一日ていどの看護の研修を受けた女生徒たちの仕事でした。-略-」

--戦後の学校
「青空校舎」→「むかで校舎」→「馬小屋校舎」
「むかで校舎」はたくさんのつっぱり棒があったという。

タイトルついて。下「」引用。

「「地域によってフィルムの多いところ、少ないところ、その差がありすぎます。そこで、沖縄戦の総集編とすることにしましょう。」
 ビデオのタイトルは『一フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦』と決めました。
 初公開は、五十年前にアメリカ軍が沖縄に上陸した四月一日。」

受賞した中村文子。下「」引用。

「中村さんのもとに届いた「地の塩賞」は、『あごら」という月刊誌が主催するもので、平和活動や女性の地位向上、人権問題など、地道な活動を長いあいだつづけてきた女性に贈られる賞です。」

ヒロシマでは10フィート運動というものがありましたね……。






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