磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ヒロシマの女たち

2008年10月29日 | 読書日記など
『ヒロシマの女たち』
   広島女性史研究会・編著/ドメス出版1987年

今までの文献にも数多くとりあげらている人たちのことが書かれてあります。

■目 次■

いち早く孤児救援活動 上栗和子  7
極限状況のなかでの詩を 栗原貞子  15
世界へ平和宣言 平和婦人大会  23
「原爆の子の像」建立に力 広島折鶴の会  39
平和へ地道な活動 山本シカ  47
原爆孤児の母親役 中野千歳  55
体験の継承へ連帯 被爆女教師  63
母親の自主的平和学習 山下朝代  71
世界平和へ女の心結集 原水爆禁止広島母の会  79
被爆二世の子を失い原爆証人へ 名越操  87
胎内被爆小頭症の子とともに 畠中敬恵  95
世界へ巡る語り部 松原美代子  103
反戦ひとすじ 小西ノブ子  111
アメリカに永住、反核を訴える 笹森恵子  127
再生した原爆乙女 山岡美智子  135
戦争と差別を告発 金連順  143
祖国の統一をねがい誇りを持ち生きる 鄭寿作  149
カナダで反核活動 節子・サーロー  153
アメリカでも反核運動 バーバラ・レイノルズ  161
イギリス反核団体とも交流 デルタ・女の会  169
あとがき  177



「序」に書かれてあります。下「」引用。

 『山陽路の女たち』(一九八五年刊)に引き続いての『ヒロシマの女たち」の刊行である。ヒロシマ女性史研究会のメンバーの熱意とエネルギーには頭が下るばかりである。-略-
   一九八六年 秋
     中国新聞社文化部 安藤欣賢」


「いち早く孤児救援」上栗和子ついて書かれてありました。下「」引用。

 敗戦の年の十月二十日、いち早く原爆孤児や引き揚げ孤児の救援に取り組んだ広島新生学園(上栗頼登園長)は、広島市の宇品から草津、基町を経て、今は東広島西条町田口に移っている。
 被爆四十年の今年(昭和六十年)一月三日、園長の妻で主任保母をている上栗(旧姓竹内)和子は、懐かしい元園児からの電話を受けた。-略-」

引き揚げ孤児の特徴……。下「」引用。

「いとけない子どもや弱者により厳しい犠牲を強いるのでか戦争だ。米を入れたまくらを日本兵に奪われたり、銃剣で親が殺されるのを目撃した子どももいたとう。引き揚げてきた孤児たちは一様に笑いを忘れ、大人を信用しなくなっていたと和子は回想する。」

原爆孤児の……。下「」引用。

「過酷な境遇の中で童心を失い、大人びた生活感覚を身につけてさまよってきた他都市からの戦災孤児。放射能障害もあったのか、無表情でおとなしかった原爆孤児。この子らに何とか子どもらしい笑顔をとりもどしてやりたいと、がれきの街にしのびよる冬の気配の中で、和子たちは奮闘した。」

もくじ

映画にもなったという。
--栗原貞子「生ましめんかな」

それは、二十万人の代表だという……。下「」引用。

「「私が産婆です。私が生ませませう」と名のり出て、曉を待たず死んだ助産婦を、貞子は八月十五日の平和の日を待たずに死んでいった二十万の被爆者を意味するという。その助産婦にとりあげられた赤ん坊は、世界平和の希望であるとヒロシマを表わすという。」

以前、読んだ本からいえば、この発言を批判する人もいるかもしれない……。

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「老人医療無料制度に力」山本シカはそれにつくしたという。
--そんな時代もありましたね……。
今じゃ、医療難民が生れる日本!
--アメリカなみの格差先進国へ……。

「原爆孤児の母親役」中野千歳について。下「」引用。

「かつて、広島市東千田町の広島大学キャンパスと地続きにあった官舎の中野清一(政経学部社会学教授)・千歳夫妻宅は、いつも夕暮れどきになると、「あゆみグループ」の若ものたちでにぎわっていた。
 「広島子どもを守る会」(初代会長・長田新)は昭和三十年、被爆十周年にちなんで、原爆孤児らから
「原爆から十年私はこうして生きた」との手記を募集した。応募者十八日のうち、同市と近郊に住む子どもら八人が、同年十月九日、当時、「広島子どもを守る会」の理事でもあった中野宅に集まったのが、グループ誕生のきっかけである。翌年、会員は約百人を数えた。」

「アメリカで“反核巡礼”」松原美代子について……。下「」引用。

「帰国後の職探しは困難だったが、四十二年に発足した広島市平和文化センターの非常勤嘱託の職を得た。美代子は、修学旅行生や平和文化センターを訪れる人びとに、いまもなまなましい被爆体験や自らの生活史を、頭を振り、手をかざして熱っぽく語る。」

バーバラ・レイノルズのことも書いてありました。

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「再生した原爆乙女」山岡美智子について。下「」引用。

「アメリカで世話をしてくれたクエーカー教徒の人びとは「私の娘が日本から帰ってきたのよ」と、親類や、近所の人に美智子を紹介してくれたほどだった。国籍を超え、分け隔てのない愛情、家族同然の扱いに、人間の愛の大きさを体を通して学んだ。
 「にくむべきは戦争であって人間ではないのです」と美智子は言う。」

もくじ




『ヒロシマの女たち 続』
   広島女性史研究会・編著/ドメス出版1998年

■目 次■

〈序〉被爆体験を伝える 1 安藤欣賢
テレビドキュメンタリー制作の先駆者 磯之恭子  7
広島母親運動を支えて 宇根内良子  21
「屍の町」被爆体験作家 大田洋子 35
子どもに寄せるひたむきの愛 大野充子  4
広島ホロコーストからの出発 黒川万千代  63
アメリカで平和教育の実践 クロセアキ  77
ヒロシマの証言 佐伯敏子  91
原爆歌集『さんげ』 正田篠枝  105
激しすぎる夏 関千枝子  121
広島が言わせる言葉 竹西寛子  135
ヒロシマの語り部 沼田鈴子  151
「原爆の図」美術館 丸木俊  165
「おこりじぞう」が教えるもの 山口勇子  175
あとがき 北西英子  186
執筆者紹介  190

大田洋子について。下「」引用。

「完本『屍の街』の「序」において占領軍の検閲による削除の事実を証して、事実を人間的な心の襞を透して事実のままに記録する、いわゆるノンフィクションと呼ばれる文学形態への先駆けとなる作品に仕上げた。その執拗なまでの執着力と冷静な観察力は、他の作家の追随を許さない。続いて、洋子は、自分の体験以外の客観的資料を広く集めて「人間襤褸」を書き、神経を病みながらも、戦争の恐怖におびえる「半人間」のなかで、主人公の小田篤子に次のように語らせる。
 「サンフランシスコにおける講和条約、日米安全保障条約、日米行政協定につづいて、破防法まで来た政策の進展を見ていて、これらの連鎖的に起ってくるものが、戦争の準備のように思い込まれ、一刻も醒めているのがいやになって、次第に睡眠薬と注射液がふえたのだということを、ぽつりぽつり医者に云った」
 しかし、洋子は「半人間」な自分の状況を自力で克服し「夕凪の街と人と……一九五三年の実態」を一九五四年、『群像』一一、一二月号に発表、同年一二月「半人間」で、文化人会議の一九五四年度平和文化章受章、各方面の注目を浴びた。」

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