磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

隠されてきた「ヒロシマ」-毒ガス島からの告発-

2008年09月26日 | 読書日記など
『隠されてきた「ヒロシマ」-毒ガス島からの告発-』
   辰巳知司・著/日本評論社1993年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「★--戦後四十数年して、いまだに安全宣言のない毒ガス島から、日本の毒ガス戦の実態をあますところなく伝える本書は、被害者としての視点から一転して加害者として日本の戦争を見つめなおし、勝つためには手段を選ばぬ戦争の非人間性を、歴史の教訓として強く訴える。--★
   ……森村誠一(作家)」



元工員からの聞き取りを基にした当時の労働実態……。下「」引用。

「大久野島では、最盛期に入ると、イベリット、ルイサイトなど主要工場は二四時間態勢となり、工員らは二交代で化学原料の搬入、設備の監視や保守・点検、毒物の調合、残留物の除去などの作業をしました。作業は、防毒面を装着し、必要に応じて防護服を着るなどの完全装備も施したが、夏季は厚さに苦しみ、作業終了時には長靴に汗が多量にたまっているのが常だったという。主要工場には大型排風機があり、有毒ガスは外部に排気されていたが、工場内に設置された休憩室にも毒ガス特有のにおいが漂い、天候が悪化し雲が低くなると、室外でもこうしたにおいが立ち込めた。」

簡単な経過……。下「」引用。

「一九四二(昭一七)年、米国の大統領ルーズベルトが中国での日本軍の毒ガス戦に対し「同じ方法でせ報復する」と警告したことで、日本軍の毒ガス使用が終息に向って以降、大久野島での毒ガス生産は減りはじめ、「日本火薬史」は一九四四(昭一九)年七月に毒ガス生産が中止となった、としている。そして同年には、毒ガスに代わって風船爆弾などの生産が始まった。さらに、米軍のB29による日本本土への空襲も加わり、大久野島から約八キロ、島の形状から「軍艦島」と呼ばれる契島がB29の機銃掃射を浴びたことから、一九四五(昭二○)年初めには、島内に防空壕が掘られ、その後、島内に貯蔵されていた毒ガスの他島への疎開が行われた。そしてそのような部隊業務は一三歳の動員学徒にまで及んだのである。」

index

一九四四(昭一九)年から四五(昭二○)年八月まで、動員学徒として大久野島に通った人が、敗戦後、入市被爆したという……。

日本人の被害者……。下「」引用。

「現在までに判明している大久野島従事者の内訳は、広島大医学部による被毒者への健康調査統計によると、一九四四(昭一九)年までの毒ガス工場稼働時に島へ通った人が約三七○○人、毒ガスの疎開作業などに従事した動員学徒、女子挺身隊員、婦人会員が約一九○○人、戦後処理、その他が約一○○○人となっている。」

中国人の証言もいくつか書かれてありました。下「」引用。

「翌日の一○月一三日、ベルデン記者は司令部で被毒した二人の中国人兵士と会った。以下は証言記録の原文翻訳である。
「二人とも身体に非常に悪い火ぶくれの徴候がでていた。火ぶくれのいつくは、手のつめぐらいの大きさで、他のいくつかは、テニス・ボール大だった。いくつかは、皮膚がピンと張った状態でふくれあがって硬くなっており、いくつかは、身体からぐにゃりと垂れ下がり、身体が動く度にある種の液体が火ぶくれの内側で動いて、それを揺り動かしていた。-略-」

七三一部隊は毒ガスの人体実験をしていた。そして、五一六部隊も……。強い
「五一六部隊は、七三一部隊に比べ、まだ実態はあまり解明されていないが、七三一部隊と協力関係をもちながら、人体実験を行うなどして毒ガスに関する研究をしていたことは判明している。-略-そして、大久野島の毒ガスはこの満州にも運び込まれていたのである。」

index









index

index

もくじ





エンタメ@BlogRanking


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。