磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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大本営に見すてられた楽園-玉砕と原爆の島テニアン-

2009年07月02日 | 読書日記など
『大本営に見すてられた楽園-玉砕と原爆の島テニアン-』
   石上正夫・著/桜井書店2001年

1968年、東京大空襲のことを知らない児童。
調査してみると、あまりにも無惨で子どもに話す気にならないという……。



占領期の言論統制……。

書かれていなかった「ひろしま」……。下「」引用。

「また、小学校三年生の『国語』(学図)の「ひろしま」には、原爆は書かれていなかった。いまでは考えられないことである。-略-」

この本を書くために旅に出たという……。下「」引用。

「世紀の節目にあたる二○○○年三月二六日から三いち日までの旅は、歳月に流されて消えようとしている「玉砕と原爆」を再確認するための旅であもった。」

「ノースフィールド飛行場(北飛行場)。右端がA滑走路。ここから原爆機が広島、長崎に飛び立った。」というモノクロの写真があった……。

囚人部隊の飛行場建設。下「」引用。

「初期の作業は整地である。接収した砂糖キビ畑はすでに整地されているが、畑の外側では巨木や大きな岩が整地作業をはばんでいる。これらの障害物はダイナマイトによって爆破された。静かな島の各所に上がる轟音は、大地をゆるがすほど激しく、開拓農民を驚かせた。」

完成して、受刑者たちは涙を流して喜んだという。

借金でテニアン島へ、そして集団自決……。下「」引用。

「保証人であった照さんは、銀行に畑、土地、家屋を差し押さえられ無一物になってしまった。途方にくれた家族は、南興の移民募集に応じることを決め、渡航費、当面の生活費を前貸ししてくれる条件でテニアンに渡った。
 小平七次郎は戦後の好景気に野って、鉄道の枕木を製造する会社をつくり、友人と共同経営をした。不況になり資金ぐりがむずかしくなると、共同経営者は資金をもって逐電してしまった。七次郎はすべてを銀行に差し押さえられ、同郷の松江春次南興社長を頼ってテニアンに渡った。
 テニアンで集団自決した川島十郎、川島善兵衛の父も、農業不況を、銀行から金を借りて乗りきろうとしたが力つきて、銀行に土地、家屋、畑から茶碗まで差し押さええられ、やむなくテニアンに移住した。一九二七年(昭和二)のことであった。-略-」

自爆……。下「」引用。

「残る川島一族一三人は、「教育勅語」を守っている校長とともに手榴弾で自爆し、全員肉片となって飛び散った。
 菊池、佐々木両家二三人の集団自決は、浅野庄一の手記によって七月三一日であることがはっきりしている。川島善兵衛をはじめ一三人の集団自決は、七月三○日の正午すぎから日没前までの間に行われた。岡本中隊と米海兵隊戦車群が激戦を展開している最中である。-略-」

原爆の組立工場は、A滑走路のエプロンからさらに北に800メートルほど入ったところであったという……。

英国は同意していた……。下「」引用。

「米英は四三年、原爆の製造が可能なことを前提としてケベック協定を結び、原爆使用の時、アメリカは、イギリスの同意を求めることになっていたて。七月四日、すでにイギリスは原爆を日本に投下することに同意していた。」

インディアナポリスのことも……。下「」引用。

「悪魔の兵器は「リトルボーイ(小さい男の子)」と名づけられた。原爆の横腹に「天皇を葬れ」「インディアナポリス乗員の霊に捧ぐ」と書かれていた。」

メンディオラ市長……。下「」引用。

「「この島で日本軍は戦って全滅になりしまた。日本精神で最後の一人まで戦って死にました。
 そしてこの島から、原爆を積んだB29が、広島・長崎に原爆を投げつたのです。
 日本人は日本の運命を決めた、とても大切な島を忘れています。
 テニアンは、日本のころび石のようにちっちゃな島ですが、忘れないでほしい」
と、メンディオラ市長は私にしみじみと語った。」








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