磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆日記-----第II集-----

2007年07月27日 | 読書日記など
『原爆日記-第II集-』
    広島県医師会1970年

広島県医師会によってつくられた原爆についての冊子です。やはり、お医者さんも人間だなあーと思う表現がいくつかありました。



広島のお医者さんがすべて、広島市におられたわけではありません。

ある人はまだ学生だったり、ある人は従軍されていたり……。

「原爆当時の私」というタイトルで広島市・長崎孝さんが書かれています。下「」引用。

「当時、私は慈恵医大の学生だった。そして学部の疎開していた埼玉県所沢市に、先輩の新井先生のお世話で下宿生活を送っていた。」

所沢市は東京よりも平静。
食糧事情も芋であったが、恵まれていたという。
しかし、サイパン島陥落後、敵機来襲で、他に疎開せねばと……。

広島に原爆投下され「戦史上最大の被害」を知り、故郷に戻ろうとするが、切符が手に入らず。
伯父はもうじき降伏するから、今少し待つようにと。
14日の夜、東京を出発したという。

また、当時も広島におられた方もいます。

「最も長かった一日」という題名で広島市の沢近宏さんがかかれています。下「」引用。

「軍医さん早くこの子を助けて下さい」と声をしぼって、衣服がぼろぼろに破れた母親が飛び込んで来た。丁度全身に大小数百のガラス片が皮内に深く浅く喰い込んでいる。」

青年の治療中であったが、母親が抱いている子供をみると既に呼吸は止まり、だらんと母親の両手らたれ下がっていたという。

母親は視力を失っている。

そこで医師はこう話されたという。下「」引用。

「よしよし、子供たちは充分治療してあげるから安心しなさい」といいながらか看護婦に目くばせをして、母親から子供をうばうように別室に移した。その婦人は「有り難うございます。ここまで連れて来た甲斐があった。ありがとう」といいながら後は声にならず、その場にへたへたと坐ってしまった。」

誠実さから嘘をつくことは、医療の現場でもよいこととされている。

しかし、現代は悪意のある嘘をつく人が多い。

火傷の患者が多いので、ピーナッツ油とタルクを入れて混合し塗剤を作ったという方もおられました。

「あの頃」というタイトルで、原田東岷。下「」引用。

「私は八月六日には台湾にいて原爆には遭わなかった。肉体的にはそうだったが、バーバラ・レイノルズさんがいったように「精神的には」被爆者かも知れない。」

原田東岷の家は、爆心地から100メートルもなかったという。
現在の慰霊碑のところで、何も残らなかったそうだ。

日本に帰国したのは、翌年の昭和21年3月。
マラリアと栄養失調で20キロも痩せていたという。
27歳のときからの長い召集生活。

--それは無意味な開戦、
幸福追求の無視、かきたてられる復讐心、
残酷な公然殺人への共犯。
そして、最後に虐殺の町に戻ってきたという。

黄色くシナビタ自分の足をみて、
「もし動けるようになったらこの死滅した町のために、又そこに住もうとする人達のために余生を捧げて見たい」
その時、原田東岷は34歳になったばかりだったという。



原爆日記-第I集-





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