磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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死線からの逃避行-シベリア・中国大陸引揚げ記録-

2010年08月16日 | 読書日記など
『死線からの逃避行-シベリア・中国大陸引揚げ記録- 戦争を知らない世代へ 2-1 石川編』
   創価学会青年部反戦出版委員会・編/第三文明社1981年

“魔の勢力”……。下「」引用。

「その第一巻の『発刊の辞』で「一方では、憲法九条の精神を骨抜きにし、自衛のための戦争は許されるとして、着々と軍備を増強している勢力がある。(中略)このような勢力こそ、民衆を再び悲惨の極へと追いやる“魔の勢力”であることを、私たちは知っている」との危惧を述べたが、今やこのことは国際間の軋みと相まって現実となった。この流れを食い止めることは、平和を願う人びと、仏法者にとっての急務であるといいたい。」

いいたいが、やっていることは今は逆なんでしょうかね?

いいたいというより、それしかないが当たり前では?



石川県でも。下「」引用。

「石川県は戦災にもあわず、比較的災害もなく恵まれた地域である--私は子どものころから、ばく然とそうしんじてきた。小さい時から聞いてきたことは、富山空襲で東の空が真っ赤に燃え上がったということであり、福井地震など隣件の話であったからである。
 ところが、石川県で戦争体験集を出版することになり、準備を進めていくと、多くの戦争体験談が掘り起こされてきた。その一つ一つの内容を聞き、読み進むうち、驚きと衝撃を受けてしまった。一見、平凡で平和に見えた石川県にも、多くの人びとの心に、今もって戦争の無惨なツメ跡が残っている。
 石川県では、敗戦までに約四万人の人たちが遠く海を渡り、旧満州を中心に満蒙開拓団や兵士、軍属や一般人として在留していたのである。当時の石川県の人口が約八十万人と推定されていたところから、その大きさに驚嘆する。この人たちの大半は、敗戦と同時に外地に置きざりにされ阿鼻叫喚地獄の様相を呈していたのである。-略-」

迫害……。下「」引用。

「やっとの思いで夫とも合流できた。その後、日々、迫害が強くなった。分校から逃げていく人たちが石で頭を割られ血まみれになったりしたこともあった。また持っている時計、指環、写真機、洋服等は強奪された。そしてとうとう九月二十二日、三十八度線がひかれ南下することが不可能になり、地獄のような生活がはじまったのである。十月には小学校をひきはらい、掘り穴式の粗末な小屋をつくって残留者と共に四百六十四人の共同生活がはじまった。」

自決の覚悟。下「」引用。

「社宅に移ってホッとする間もない三日後のラジオで日本の敗戦を知ったのです。しかも無条件降伏だと聞き「そんな馬鹿なことがある訳はない!」「きっと誰かが意図的に流しているデマだ」と頭から否定したものです。
 ところが、誰れかが命令受領に行った所、「全員、自決の覚悟をせよ」との知らせを受けてきた、ということになり、まるでハチの巣をつついたような騒ぎになって事態は一変してしまいました。「どうして死ぬのでしょう」と泣き叫ぶ人も出る有様で、寝耳に水で襲ってきた敗戦の知らせに誰もが戸惑い、事の成り行きに不安の色を隠せない表情でした。」

車内放送……。下「」引用。

「博多港に入港すると日の丸を掲げた船がたくさん停っており、感無量の思いでした。博多から汽車で岐阜に向かいましたが、車内放送で「引き揚げ者の方に席をゆずりましょう」という声をきいた時、日本のありがたさをしみじみ感じる私でした。また、満員の車中で見しらぬ方からいただいたおにぎりの味は、三十年以上たった今でも忘れられず、思い出す度に目頭が熱くなります。昭和二十一年十月三十日、夕方、わが家の玄関にたどり着きました。-略-」

校長が……、今とかわらないでは? 下「」引用。

「ひどい人は日本人の中にもいました。御飯を食べさせてやるといっての、それが何回か重なり、好意かと思っていると最後には体を要求するのです。私が「校長ともあろう人が良くそんなひとを言えますね」と言い返したら、見のがしてくれました。教師ですらこの有様だったのです。」

今も政治と関わり腐敗、元からそんなにいいわけがないでしょうね。この教育ですから……。

軍属……。下「」引用。

「私は昭和十六年八月から渡満して転戦し、十八年十月に一時帰国。翌年、金沢の友人の世話で軍の暗号印刷局へ軍属として再び満州の地を踏んだ。」

中国人の怒り。下「」引用。

「私の列車区の区長も殺された一人で、彼はやはり馬で日本人町の中を、音楽隊付きで、プラカードをささげながら、引きづり回され、井戸になげ込まれて死んだ。日本人が、中国大陸で犯した、数々の残虐行為は酸鼻を極めた。それまで日本人にいじめられ、なぶりものにされ、殺された、中国人の怒りをそこに見せつけられる思いだった。」

お互いに再婚……。下「」引用。

「帰郷して私は一番最初に中国で別れたままの妻の消息を聞いて廻った。引き揚げ者と聞くと、必死になって尋ね歩いた。しかし、以前として消息はわからず、妻はもう死んだものと思い、ついに再婚した。
 しきし、昭和五十年三月、すでに亡くなって、もうこの世にはいないと思っていた妻が故郷に一時帰国していたのだ。その妻に私は再会する機会があった。妻は、すでに中国人と再婚していて子どももいた。私は、しばらく茫然と立ちすくんで声も出なかった。」

「トウキョウ・ダモイ」とだまされた……。下「」引用。

「それはウラジオストックならば東の方角でなければならないのに、貨車は北に向かってどんどん進んでいるのではないか。「トウキョウ・ダモイ」とは真っ赤な偽りで“ソ連の捕虜になったのだ”とこの時悟った。その後、群生する森林地帯をぬけて数日間、貨車は走り続けた。」







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