磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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平和冊子No.6 被爆証言集原爆被爆者は訴える 平和の光を

2009年03月19日 | 読書日記など
『平和冊子No.6 被爆証言集原爆被爆者は訴える 平和の光を』
   広島平和文化センター・編/広島平和文化センター1988年

タイトル通りの内容です。



■目 次■
発刊にあたって  5
被爆距離図  7
被爆の全体像について  9
被爆証言集 原爆被爆者は訴える
 煙石二三枝 犠牲者の遺骨の前で読経  19
 川本義隆 人間らしく生きる世界を  28
 小松キクヱ 未だに骨もないわか娘を思う  32
 小松清興 アウシュビッツとヒロシマがだぶる  35
 笹村弘志 運動場に蚊帳を吊って子どもの世話を  43
 高橋昭博 「ヒロシマ」で生きることの意味を問う  52
 寺前妙子 苦悩を越えて強く生きよう  60
 松重美人 生き地獄にシャッターが切れず  69
 松原美代子 讃美歌で心の安らぎを  77
 山岡ミチコ 米国で27回の手術を受ける  86
 山根力男 課員全員が死亡する  91
外国人の原爆被害について
      中国新聞社 文化部記者 上原敏子  98

「犠牲者の遺骨の前で読経」 下「」引用。

「-略-5年前のこと、舟入病院で検査に行った時、ある壮年紳士より夜10時頃呼ばれて、「僕の懺悔(ざんげ)の話を聞いて下さい」と言われました。その紳士は、30数年間の精神的な苦しみ、勿論肉体的にもずっと病院通いをしていますが、今までの苦しみを話します。8月6にち、重傷の身で逃げる途中、川土手の下を見ると、30歳位の婦人が、身は重傷を負っていながら、お産が始まって苦しく、助けて下さい、助けてと手をふり、助けを求めておられたのに、自分の身体が重傷のため、ふり切って逃げた。-略-」

「生きる屍」というひどい学者がいましたが、ならばアメリカ軍や当時の政府は「生きる死神」か「生きる悪魔」なのでしょうか? 学者が小説家のような表現は困ったものでは? 読んでいてふと思いました……。

「人間らしく生きる世界を」 下「」引用。

「暗闇の中で、生きている級友達は、校歌を歌い続けていました。私も、校舎の残骸(ざんがい)の下敷きになっている皆といっしょに歌いました。
 暗闇の中で歌い続けていても、助けには誰も来てくれません。そのうち、歌声も一つ、また一つと消えていき、残るのはうめき声とむせび泣きの声だけとなりました。その時、言い知れぬ不安と恐怖が私の全身を襲ってきました。-略-」

「未だに骨もないわが娘を思う」 下「」引用。

「毎日夫婦で、あれでも娘が帰る途中で倒れてはいないかと、さがし歩きまわりました。随分、残酷な思い出の数々でした。1週間後には娘の様子が分かりました。6日の朝、交代でバルコニーに出て、点呼をする時、直撃を受けたらしく、未だに遺体も分かりません。-略-」

「アウシュビッツとヒロシマがだぶる」 下「」引用。

「私、1984年8月、ポーランドで初めて開催された「ヒロシマ・ナガサキの戦争に反対する原爆記録展」に語り部として訪れる機会を得ました。-略-」

「「ヒロシマ」で生きることの意味を問う」 下「」引用。

「人間の能力の中で最も強いのが忘却力であると言われます。しかし、私は“あの日”のできごとは、決して忘れることができません。たとえ思い出すのが苦しくても忘れられないと、自戒してきました。そして“あの日”がその後の私の人生の出発点であると言いきかせて生きてきました。“あの日”の惨状は、まるで、きのうのことのように、つぎからつぎへと、脳裏によみがえってきます。-略-」

「苦悩を越えて強く生きよう」 下「」引用。

「私はあの原爆で、思いがけない障害者になりました。ガラスの破片で顔面をズタズタに裂かれ、左眼を失いました。
 昭和20年3月、私達進徳高女(しんとくこうじょ)の2年生は、電話局、貯金局、小川工場(原爆時には電話局へ吸収)の三カ所へ、学徒動員で出ることになり、私は広島中電話局(爆心地より約550メートル)の交換手として働いておりました。-略-」

「生き地獄にシャッターが切れず」 下「」引用。

「私の軽傷にくらべて、生死をさまよい、断末魔(だんまつま)の苦しみに喘(あえ)ぐこの人たちを思うと、涙が出てファインダーを透(とお)す情景がうるんでいたのが、いまも私の網膜に焼きついて消えません。この惨状を2枚でも撮影できたことに、目前で苦悶していた人たちには申しわけないが、責任を果たしたこころの安らぎ感じました。-略-」

「讃美歌で心の安らぎを」
親は鏡を見せてくれなかったという。そして、驚く著者。下「」引用。

「母は、「お前に代って、自分が原爆を受けてやればよかった。自分は老いさき短いのだから、戦争がうらめしい」といって、なげき悲しみました。-略-」

そして、福祉施設に勤務。下「」引用。

「丁度その時、谷本清牧師は、身寄りの少ない幸せ薄い盲児のための施設を設立されたのです。ここで、私たち原爆乙女3人が住込保母として働くことになったのです。-略-」









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