『暗雲を越えて』
嘉屋文子・著/嘉屋文子1965年
「序」に書かれてあります。下「」引用。
「原爆が広島に投下されてから、ことしでちょうど二十年めを迎えます。
わたくしは、これまでに「きのこぐも」「続きのこぐも」を書いて、被爆者の実態を世の人に知っていただこうと微力をつくしてきたつもりです。しかし、なお書き残したことや親しく聞き知ったことがたくさんあります。-略-
昭和四十年七月二十五日 嘉屋文子」
「「暗雲を越えて」について」日本女医会会長 龍知恵子・著。下「」引用。
「この書の著者医学博士嘉屋文子女史は東邦大学の前身である帝国医学女子医学専門学校に学び、卒業後、女医として広島県の衛生課に勤務中、たまたま昭和二十年八月六日の広島市の被爆の際、重傷を負われましたが、幸いにもその傷は癒えて、続いて県庁に勤務しておられます。そのかたわらみずからの体験と多くの被爆者およびその家族のかたがたから当時の惨憺たる実情を聴取記録したものを「きのこぐも」の一冊につづって先年出版され、その惨状を世に知らしめ、かつまた原爆犠牲者のかたがたの冥福を祈るとともにこの悲惨事のふたたび繰り返されることのようにと、世人に強く訴えられたのでした。-略-」
峠三吉の妻……。下「」引用。
「また、三月二十日夜、原爆詩人故峠三吉氏未亡人原田和子さん(五六歳)が義姉の家で原爆症を苦に自殺せられたことが新聞紙上をにぎわした。このことも多くの被爆者のこころに大きなショックを与えた。たとば、その直後に被爆者の青年がさっそくわたしのところに健康相談にとんで来た。-略-」
index
トリアノンという薬がきいたという。下「」引用。
「火傷がなおらないのは、消毒がじゅうぶんでないうえ、栄養失調のためだと、だれも思っていた。課長以下職員はほとんど袋まち小学校で寝起きして、看護婦が食事の用意をしていた。市民はまっかに焼けたトタンを囲んで、床もない家に住んでいるので、秋ぐちからかぜひきが多く出て、往診往診と歩きまわった。雨もじゅうぶんしのぐことのできない所に住んでいたが、トリアノンを飲ませるとすぐ熱が下がって喜ばれ、お金も保険のことも考えないで心から治療ができたことは、わたしにとっては忘れることのできない体験であった。」
薬は国際赤十字社からだったという。下「」引用。
「そのうちに、スイスの万国赤十字社より送られた薬品をアメリカ軍を通じてもらったので、大助かりした。注射針がついたままの麻薬、スルファミン剤、これらを火傷、外傷部にふりかけたら効果があった。」
医師もボケていたという……。下「」引用。
「医師には読む本もなく、また、外地から帰られた医師は南方ぼけ、わたしたちはピカぼけがぬけきれず、ただ目の先の仕事だけで日を送っていた。毎日何通とはなく、死体も見ないで死亡診断書を発行していた。-略-」
--「青年僧侶にお目にかかって」。下「」引用。
「今の若いかたから宗教が離れていくようですが、平和はやっぱり古くから伝わる宗教から生まれるのではないでしょうか。」
--「ABCCの開設」というタイトルの文章があったが、何の非難もなかった。
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嘉屋文子・著/嘉屋文子1965年
「序」に書かれてあります。下「」引用。
「原爆が広島に投下されてから、ことしでちょうど二十年めを迎えます。
わたくしは、これまでに「きのこぐも」「続きのこぐも」を書いて、被爆者の実態を世の人に知っていただこうと微力をつくしてきたつもりです。しかし、なお書き残したことや親しく聞き知ったことがたくさんあります。-略-
昭和四十年七月二十五日 嘉屋文子」
「「暗雲を越えて」について」日本女医会会長 龍知恵子・著。下「」引用。
「この書の著者医学博士嘉屋文子女史は東邦大学の前身である帝国医学女子医学専門学校に学び、卒業後、女医として広島県の衛生課に勤務中、たまたま昭和二十年八月六日の広島市の被爆の際、重傷を負われましたが、幸いにもその傷は癒えて、続いて県庁に勤務しておられます。そのかたわらみずからの体験と多くの被爆者およびその家族のかたがたから当時の惨憺たる実情を聴取記録したものを「きのこぐも」の一冊につづって先年出版され、その惨状を世に知らしめ、かつまた原爆犠牲者のかたがたの冥福を祈るとともにこの悲惨事のふたたび繰り返されることのようにと、世人に強く訴えられたのでした。-略-」
峠三吉の妻……。下「」引用。
「また、三月二十日夜、原爆詩人故峠三吉氏未亡人原田和子さん(五六歳)が義姉の家で原爆症を苦に自殺せられたことが新聞紙上をにぎわした。このことも多くの被爆者のこころに大きなショックを与えた。たとば、その直後に被爆者の青年がさっそくわたしのところに健康相談にとんで来た。-略-」
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トリアノンという薬がきいたという。下「」引用。
「火傷がなおらないのは、消毒がじゅうぶんでないうえ、栄養失調のためだと、だれも思っていた。課長以下職員はほとんど袋まち小学校で寝起きして、看護婦が食事の用意をしていた。市民はまっかに焼けたトタンを囲んで、床もない家に住んでいるので、秋ぐちからかぜひきが多く出て、往診往診と歩きまわった。雨もじゅうぶんしのぐことのできない所に住んでいたが、トリアノンを飲ませるとすぐ熱が下がって喜ばれ、お金も保険のことも考えないで心から治療ができたことは、わたしにとっては忘れることのできない体験であった。」
薬は国際赤十字社からだったという。下「」引用。
「そのうちに、スイスの万国赤十字社より送られた薬品をアメリカ軍を通じてもらったので、大助かりした。注射針がついたままの麻薬、スルファミン剤、これらを火傷、外傷部にふりかけたら効果があった。」
医師もボケていたという……。下「」引用。
「医師には読む本もなく、また、外地から帰られた医師は南方ぼけ、わたしたちはピカぼけがぬけきれず、ただ目の先の仕事だけで日を送っていた。毎日何通とはなく、死体も見ないで死亡診断書を発行していた。-略-」
--「青年僧侶にお目にかかって」。下「」引用。
「今の若いかたから宗教が離れていくようですが、平和はやっぱり古くから伝わる宗教から生まれるのではないでしょうか。」
--「ABCCの開設」というタイトルの文章があったが、何の非難もなかった。
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