『角川文庫4647 原爆投下前夜
ベルリン、ワシントン、モスクワ、そして東京』
戦史研究会/角川書店1980年
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「1940年、昭和15年にいたってようやく、日本においても、原子核反応の爆弾への利用の可能性が探られはじめてはいた。しかし、核エネルギーという未曾有(みぞう)の大テーマについてはすでに、ヒトラー・ドイツおよびマンハッタン計画を推進するアメリカ合衆国においてこそ、膨大な物量と人力を投入して、熾烈(しれつ)な先陣争いが演じられてきた点。人類が、自らの力を超えるエネルギーを所有しつつあった〈広島前夜〉の胎動を、圧倒的な迫真力をもって壮大に描ききったノンフィクション・ドラマ。「日本のいちばん長い日」と連作をなす、ニュージャーナリズムの傑作!」
日本の原爆研究についても書かれてあります。
ドイツは日本よりも進んでいなかったようにボクには思えます。
そもそも、やる気がなかったという感じですね。
仁科博士のことについて書かれてありました。下「」引用。
「そして、仁科博士はなによりも明治人らしい精神の骨格をもっていた。国を興し、わずか半世紀で四等国から一等国にまで祖国をおしあげた明治日本人の気概(きがい)があった。天皇と国と自然とを心から愛した。しかし、その仁科博士にして、こと原子爆弾について、それらしい動きを示そうとしなかったのは、なぜだろうか。原子爆弾というものに対して、効力を知る故に、人類絶滅の兵器として心底においてはげしく嫌ったためだろうか。」
明治人というのは、人間として昭和よりも上質の人たちのようにボクには思えました。
節分にチャーチルとルーズベルト人形……。下「」引用。
「日本の国力はいたるところで破綻をみせはじめていた。三月から夕刊が廃止されたし、四月には旅行制限の強化、そして特急、寝台、食堂車が消えた。歌舞伎座、帝劇、日劇などが閉鎖、町には雑炊(ぞうすい)食堂が開かれた。せめてもの憂さばらしに、銀座三越のショーウィンドにチャーチルとルーズベルトを擬(ぎ)した青鬼、赤鬼の人形が飾られ、それに人々は豆を叩きつけて、一時の楽しみとした。」
鬼畜米英と教え……。精神というけど、そう教える人たちはどうだったのかも考えてもらいたい。
現在も辛い目、痛い目は他の人たちという輩が、戦争を讃美しているように思えてならない。
ドイツの原爆は幻想だったというシーンは印象に残りました。下「」引用。
「「ヒトラーが原爆をもっていないなんて、まったく素晴らしいことですな」といった。
「こうなれば、われわれの原爆ももういりませんね」
少佐はびっくりしたように答えた。
「とんでもない。あなたは軍というものをご存知ない」
科学者は立ち止まった。
「それじゃ……」
「そうです。いったん、こういう強力な兵器をつくったからには、ドイツの原爆と関係なく、どこかで使います。おわかりになりませんか」
と、少佐は予言した。博士の良心はこの瞬間に凍った。」
サイレンの故障で惨劇があったという。
空襲警報のサイレンもいつも正確とは限らない。
一本化していなかったという。今も似たようなものですね。下「」引用。
「悲劇は東京のいあたることろにあった。いうにいわれない憤りが、都民の心中にたぎりはじめ、それをなにに向けていいのか、多くのものはとまどったが、空襲に対する東京都の応急措置と復旧工作のスローぶりにまず憤懣(ふんまん)をぶちまけた。滑稽なことは、緊急かつ悲惨なときに、東京都にはすべてを一本化して指導する責任ある統轄(とうかつ)者がいなかったことである。
一、道路に爆弾が落ちたとき=計画局道路課
一、屋根のトタンや鉄骨などが飛んだとき=経済局商工課
一、焼け残った建物の処理=防衛局建築課
一、焼け跡の土地についての処理=計画都市計画課
一、水道が破裂したとき=水道局
一、怪我人がでて倒れているとき=衛生局
なんというわずらわしさか。これが戦いを指導する役所の実態である。」
落とさずとも勝っていたアメリカ。下「」引用。
「原爆二発を落とさなくても、戦争は終わっていたのだ。そのことをアメリカ政府筋は知っていたはずである。朝日新聞記者・中村正吾は戦中日記に書いている。「七月一七日南米リオ・デ・ジャネイロからの放送は依然、簡単ではあるが、スターリン首相は日本の和平条件をポツダムに携帯したとの報道を行なった。ついで、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙ワシントン特派員は、日本が和平を企図しているとの詳細な記事を書いたことが、サンフランシスコから放送された。」
半藤一利が書いた作品です。下「」引用。
「なお第一部、第二部、エピローグは半藤一利、第三部は湯川豊がまとめました。」
目次
ベルリン、ワシントン、モスクワ、そして東京』
戦史研究会/角川書店1980年
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「1940年、昭和15年にいたってようやく、日本においても、原子核反応の爆弾への利用の可能性が探られはじめてはいた。しかし、核エネルギーという未曾有(みぞう)の大テーマについてはすでに、ヒトラー・ドイツおよびマンハッタン計画を推進するアメリカ合衆国においてこそ、膨大な物量と人力を投入して、熾烈(しれつ)な先陣争いが演じられてきた点。人類が、自らの力を超えるエネルギーを所有しつつあった〈広島前夜〉の胎動を、圧倒的な迫真力をもって壮大に描ききったノンフィクション・ドラマ。「日本のいちばん長い日」と連作をなす、ニュージャーナリズムの傑作!」
日本の原爆研究についても書かれてあります。
ドイツは日本よりも進んでいなかったようにボクには思えます。
そもそも、やる気がなかったという感じですね。
仁科博士のことについて書かれてありました。下「」引用。
「そして、仁科博士はなによりも明治人らしい精神の骨格をもっていた。国を興し、わずか半世紀で四等国から一等国にまで祖国をおしあげた明治日本人の気概(きがい)があった。天皇と国と自然とを心から愛した。しかし、その仁科博士にして、こと原子爆弾について、それらしい動きを示そうとしなかったのは、なぜだろうか。原子爆弾というものに対して、効力を知る故に、人類絶滅の兵器として心底においてはげしく嫌ったためだろうか。」
明治人というのは、人間として昭和よりも上質の人たちのようにボクには思えました。
節分にチャーチルとルーズベルト人形……。下「」引用。
「日本の国力はいたるところで破綻をみせはじめていた。三月から夕刊が廃止されたし、四月には旅行制限の強化、そして特急、寝台、食堂車が消えた。歌舞伎座、帝劇、日劇などが閉鎖、町には雑炊(ぞうすい)食堂が開かれた。せめてもの憂さばらしに、銀座三越のショーウィンドにチャーチルとルーズベルトを擬(ぎ)した青鬼、赤鬼の人形が飾られ、それに人々は豆を叩きつけて、一時の楽しみとした。」
鬼畜米英と教え……。精神というけど、そう教える人たちはどうだったのかも考えてもらいたい。
現在も辛い目、痛い目は他の人たちという輩が、戦争を讃美しているように思えてならない。
ドイツの原爆は幻想だったというシーンは印象に残りました。下「」引用。
「「ヒトラーが原爆をもっていないなんて、まったく素晴らしいことですな」といった。
「こうなれば、われわれの原爆ももういりませんね」
少佐はびっくりしたように答えた。
「とんでもない。あなたは軍というものをご存知ない」
科学者は立ち止まった。
「それじゃ……」
「そうです。いったん、こういう強力な兵器をつくったからには、ドイツの原爆と関係なく、どこかで使います。おわかりになりませんか」
と、少佐は予言した。博士の良心はこの瞬間に凍った。」
サイレンの故障で惨劇があったという。
空襲警報のサイレンもいつも正確とは限らない。
一本化していなかったという。今も似たようなものですね。下「」引用。
「悲劇は東京のいあたることろにあった。いうにいわれない憤りが、都民の心中にたぎりはじめ、それをなにに向けていいのか、多くのものはとまどったが、空襲に対する東京都の応急措置と復旧工作のスローぶりにまず憤懣(ふんまん)をぶちまけた。滑稽なことは、緊急かつ悲惨なときに、東京都にはすべてを一本化して指導する責任ある統轄(とうかつ)者がいなかったことである。
一、道路に爆弾が落ちたとき=計画局道路課
一、屋根のトタンや鉄骨などが飛んだとき=経済局商工課
一、焼け残った建物の処理=防衛局建築課
一、焼け跡の土地についての処理=計画都市計画課
一、水道が破裂したとき=水道局
一、怪我人がでて倒れているとき=衛生局
なんというわずらわしさか。これが戦いを指導する役所の実態である。」
落とさずとも勝っていたアメリカ。下「」引用。
「原爆二発を落とさなくても、戦争は終わっていたのだ。そのことをアメリカ政府筋は知っていたはずである。朝日新聞記者・中村正吾は戦中日記に書いている。「七月一七日南米リオ・デ・ジャネイロからの放送は依然、簡単ではあるが、スターリン首相は日本の和平条件をポツダムに携帯したとの報道を行なった。ついで、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙ワシントン特派員は、日本が和平を企図しているとの詳細な記事を書いたことが、サンフランシスコから放送された。」
半藤一利が書いた作品です。下「」引用。
「なお第一部、第二部、エピローグは半藤一利、第三部は湯川豊がまとめました。」
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