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指揮官の決断-満州とアッツの将軍樋口季一郎-

2010年09月11日 | 読書日記など
『指揮官の決断-満州とアッツの将軍樋口季一郎- 文春新書 758』
   早坂隆・著/文芸春秋2010年

オトポール事件の発生。樋口はユダヤ人を救ったという。



凍死者が出た……。下「」引用。

「三月のこの地は、朝晩に氷点下二十度を軽く下回る。難民たちは、寒風吹きすさぶ原野にテントを張り、満州国に対して助けを求めていた。
 すでに凍死者が出ているという情報も、樋口の耳に届けられた。樋口は以前、駐在武官としてポーランドのワルシャワに滞在した経験がある。そんな樋口なら、ユダヤ人難民が出現した背景は、すぐに理解できるであろう。」

ハルビン特務機関に属していた樋口。

3か月前、「第一回極東ユダヤ人大会」1937年12月。

松岡洋右に特別列車をだすように詰め寄った樋口。

これは「杉原の命のビザ」の2年半あまり前の出来事。

石原莞爾と陸軍大学校で同級生の樋口……。首席も石原と同様、東條により……。下「」引用。

「首席は後の陸軍中将、鈴木率道(よりみち)であった。鈴木は陸軍航空隊の発展に尽力したが、東條英機に疎まれて要職から外され、不遇の内に没することになる。」

朝香宮鳩彦王、パリ留学中。ワルシャワの戦跡を見学したという。

相沢事件1935年、樋口の元部下相沢。

石原莞爾。下「」引用。

「石原は中国との事変に関し、徹底的に不拡大の方針を指示していた。石原は、ここで中国と消耗戦を始めたら、本来の仮想敵国であるソ連やアメリカに対する備えができなくなることを危惧していた。しかし、東条英機など拡大派の勢いを止めることは、石原といえども困難であった。-略-」

冨永恭次大佐は「東條の腰巾着」……。下「」引用。

「レイテ決戦の折、部下を置き去りにして台湾へ逃げ帰ったことで汚名を残す。また、田中は戦後、極東国際軍事裁判の法廷において、検事側の承認として被告の不利となる証言を繰り返したことで有名となる。」

樋口と東條。下「」引用。

「樋口にとって東條は、陸軍士官学校の四期先輩にあたる。
 樋口は東條派の独走ぶりを苦々しく思いながら、ハルビン特務機関での軍務を開始した。現地の東條派の動向は、中央の方針を大きく逸脱してしおり、その温度差、空気の違いを樋口は強く感じた。関東軍は、陸軍省、参謀総本部の下、天皇の統帥権下に存在するものであるが、実際には中央との距離感を自らも意識し、それを自己肯定しながら、行動を規範している雰囲気が横塧していた。そんな「下克上」的な空気を創出した端緒に、石原莞爾が起こした満州事変があるという一面を否定できないことは、樋口にとっても整理しがたい現実であったと言えよう。」

「ヒグチ・ルート」 下「」引用。

「他の複数の記録と照合すると、一九三八年三月に開かれた「ヒグチ・ルート」は、一九四一年(昭和十六年)六月にドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発するまで有効だったと思われる。その約三年間の間に、無数のユダヤ人たちが、このルートを利用した。
 ただそれにしても、その総計が「二万人」に達するという証拠は存在しない。」

河豚計画」……。

東條も折れる……。下「」引用。

「その時、樋口が東條に言い放ったとされる言葉は、現在でも語り草となっている。
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」
 樋口は自分の決断の正当性を主張し、東條は樋口の話に耳を傾けた。結局、東條はそんな樋口に対し、懲罰を科すことをしなかった。」

INDEX

「杉原」のように有名ではないという。下「」引用。

「「残念ながら、一般的な知名度という点では決して高くありません。日本人の行った救出劇で有名なのはスギハラの方です」
 彼女はそう言って、杉原千畝の名前を口にした。日本の一部の資料には、「樋口はイスラエルで誰でも知っている有名人」「樋口の名前を冠した道路がある」といった記述が存在するが、それも事実とは遠いと言わざるをえない。」

アッツで玉砕だが、キスカ島で撤退させた樋口。

戦後は「軍人は敵」だとされたという樋口の家族。








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