磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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軍隊慰安婦 戦争と人間の記録

2010年08月02日 | 読書日記など
『軍隊慰安婦 戦争と人間の記録』
   金一勉・編著/徳間書店1992年

表紙の続きのような写真があった(表紙の右上のバナナを持つ男がいなくなっているが、部屋の様子はかわらない)。その写真のキャプション。下「」引用。

「南方面へ向かう輸送船の船内には、死地におもむく兵隊とともに慰安婦もいた。戦後、彼女たちのことを記録するものがいたであろうか……」



「略奪と強姦に明け暮れた一五年戦争」 下「」引用。

「中国に押しかけた日本軍隊の戦闘とは、主に“討伐”であった。利権と物資の略奪、民家を焼き払い、婦女子に強姦することだった。かんじがらめに縛られた兵隊たちは、命令と服従、ビンタの制裁にあけくれるオリの中の警察犬のようなものだった。人間ではなく、戦争動物にさせられた。-略-」

「元軍医の証言」麻生徹男・著。下「」引用。

「「陸軍娯楽所」の開設と私
 昭和十三のはじめころ、当時、-略-とりあえず同僚のもう一人の婦人科医と出かけて行った。
 命令にいわく『麻生軍医は近く開設さられるる陸軍娯楽所の為目下、其美路沙小学校に待機中の婦女子百余名の身体検査を行う可し』と。」

「軍隊慰安婦の実態」金一勉・著。
「ペテンにかれられた朝鮮の娘たち-略-」 下「」引用。

「ここにいう“軍隊の特殊要務”とは何か。それはカムフラージュの仮称である。その実際の役目が何であるかは、それを謀った加害者側(日本人)としても、また被害者の朝鮮人としても口に出して語ることをためらうほどの、恥辱きわまりないものであった。それをのちに「軍隊慰安婦」と名づけたが、これもカムフラージュの名称であった。……その実体は、数百万の日本軍隊の性欲をさばく“軍隊専用女郎”のことであった。」

要約……。下「」引用。

「これを“慰安婦部隊”とも称して各軍隊に配置した。だが、そんなことはつゆ知らずに、朝鮮各地では、だまして集めた娘たちを送り出すのに「のぼり」や「日の丸」を振って村中総出で歓送したこともある。その朝鮮の娘たちは、一度出かけたが最後、帰ることも親許へ救いの手紙を出すこともできなかった。
 そして最後に、日本軍の敗北・退却の際には、これらの慰安婦を現地に置き去りし、あるいは、ひとまとめにして殺してしまったのも少なくない。これほどの罪悪を犯した日本軍では地上から「資料」や証拠を残すことなく抹殺するつもりであったらしい。」

「沖縄の慰安婦」富村順一・著。
自殺をした姉、看護婦から慰安婦へ。下「」引用。

「花子姉妹をはじめ、何人もの朝鮮女性たちがその夜からむりやりに慰安婦にさせられた。花子も姉もその夜、生れてはじめて男を知ったのだという。姉はそれから三日目に投身自殺をした。姉は婚約者にすまないといい、日本人を心から憎しみ呪って死んでいったという。花子は自分は意気地がないから、日本軍に身を汚されても死ぬことができなかつたと口惜し涙を流していた。」

「芸者・黒須かなの従軍」上坪隆・著。下「」引用。

「黒須かなは、十二歳で芸者になった。そしてこの国の戦争の歴史とともに、“従軍芸者”として戦争の最前線を転々とした。慰安所の経営者にもなった。その人生は帝国軍隊とともにあったともいえる。そして今、彼女はわずかな家財道具とともにこの病室に住んでいる。」

延吉での東条英機のことを話す黒須。下「」引用。

「-略-加藤さんとは昭和十年前後に延吉憲兵隊長をしていた加藤伯次郎であり、東条さんとは当時関東軍憲兵司令官をしていた東条英機のことである。この二人のコンビは、後に東条が総理大臣になると加藤は第三十代の憲兵司令官となり、戦争中憲兵政治をほしいままにした人物である。『陸軍憲兵史』には、「加藤憲兵司令官は就任間もなくマスコミから東条憲兵と噂された憲兵隊による政治的弾圧が始まるのは、この頃からであるが、その開幕が中野正剛の検挙となるわけである」と記されている。
 要約すると彼らのコンビは東条批判派を軍人であれば左遷し、政治家であれば口実もなく逮捕して子息などの徴兵、最前線への追放などをおどしに使って事件をデッチあげた。こうした経過で、当時のナショナリズム政治家大政翼賛会総務の中野正剛も自刃することになったのだが、それは暗黒政治の手口そのものだった。彼らのコンビは昭和十年前後の延吉においても同様の手口を使っていた。-略-」

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証拠写真……。下「」引用。

「当時陸軍軍医少尉として北支に従軍した麻生徹男氏を私は福岡市東区の自宅に訪ねた。
「帝国軍隊に直轄の慰安所が本当にあったのかどうか、当時の軍関係者はそれを否定しつづけたが、俺が撮ったこの一枚の写真が動かぬ証拠」と一冊の写真集を見せてくれた。-略-」

麻生徹男はクリスチャン。

阿片を吸い、中毒になったという。下「」引用。

「この薬は「満丸」の女たちに徐々に広がり、彼女たちの体を蝕んでいった。体重が減り一日じゅう気だるい気分になっていた。ところが黒須かなは、自分が阿片中毒にかかっていることを、それほどには自覚していなかった。当時三十五歳であった。」

戦後、朝鮮戦争で……。下「」引用。

「長崎県大村の田舎で、足どめされているとき、「小倉は、アメリカ兵がいて景気がいい」という話を耳にした。一九五○(昭和二十五)年のことである。-略-小倉の街は戦争の特需景気でにわかに活気づいていたのである。-略-」

米軍慰安所。下「」引用。

「はじめ不安がった者も誘惑に負けて、三○人の娘たちは二台のトラックにつめこまれて“人道愛に燃えた慈善会社”へつれて行かれた。……しかしトラックの到着したのは「米軍慰安所」であった。すると、内務省の代表と称する男が現われて、次のような演説をぶった。
「諸君らは誇りをもって、この特別挺身の任務を完遂し、-略-諸君らこそ、日本帝国の歴史に千歳に残る烈婦である」と。
 夜になってアメリカ兵が押しかけてきた。逃げた女は、慰安所を取り巻く武装ガードにつかまって戻される。一女学生は暁方に逃げたが捕ってリンチを受け、右眼をえぐりとられた。(五島勉編『続・日本の貞操』一九五三年刊)」

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