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シリーズ・戦争の証言17 海軍特別警察隊-アンボン島BC級戦犯の手記-

2009年05月02日 | 読書日記など
『シリーズ・戦争の証言17 海軍特別警察隊-アンボン島BC級戦犯の手記-』
    禾(のぎ)晴道・著/太平出版社1975年

「まえがき」にこう書かれてあります。下「」引用。

「この本を書こうと決意してから一六年の歳月が過ぎ去りました。敗戦の年から一○年目、一九五五(昭和三○)年五月にわたしは巣鴨プリズン(戦犯者刑務所)から自由の身になりました。その時三六歳になっていました。
 書こうとしてペンを取ると、いい知れないさびしさと、どこにぶつけてよいかわからない怒りがこみあげてきました。
 しかし、あの「聖戦」が正反対の侵略戦争であったことを知りえた現在も、あすの生命もわからない戦線で「きさま」「おれ」と呼び合って共に戦った者同士の連帯感は、思い出すだけでもほのぼのとした温かさを感じるのはなぜでしょうか。共に戦い、共に飲み、共に死のうと誓った戦友の多くが、敗戦後、だれにも見送られることなく、戦争犯罪人として異国の島々で銃殺されていきました。
 この本に書いた事件には、時間が経過した今日、わたしの勘違いから多少の前後があるかも知れません。しかし、すべて本当にあったことです。-略-」



着任したのは……。下「」引用。

「わたしが、初めての転任命令を受けたのは、中尉に進級したばかりの、一九四四(昭和一九)年二月の下旬だった。
 インドネシアの外領セレベス島南端の中心都市マカッサルにあった海軍民政部(軍政部)に勤務して以来一年半、占領軍としての軍政機関での変化のない仕事にのすっかりあきあきしていたころだった。」

5人の現地の若者の斬首のシーンがある。
その表現はリアルである。

そして、こう書く。下「」引用。

「戦争さえなかったら幸福に生きのびたであろう五人の若者たち、日本軍が来なかったら、なんの事件も発生しなかっただろう五人の若者の運命について、わたしは考えた。
 殺人者と殺された人たちの間に、いったいどれほどにくしみ合わねばならない関係があったのだろうか。
 アンポン特警隊着任後、最初の殺人の洗礼だった。-略-」
 
そして日本人が日本人を殺した事件もあったという。

「IX 慰安婦狩り」 下「」引用。

「アンポン島のような小さなケシ粒のような島にも、中国大陸の戦線と同じように、男性の整理的欲求を処理するための「慰安所」が設置されていた。-略-
 そこには日本女性も動員されていたし、もちろん現地人女性が多く集められて運営されていた。彼女たちは、軍人を慰める目的であることから「慰安婦」と呼ばれていた。国家権力による強姦強要でもあった。」


慰安所をつくるための会議があったようだ。下「」引用。

「最初に、集める女の対象が検討された。第一に、慰安婦の体験者を対象にすること、それと売春の常習者。第二に、あの女は売春行為をやっているかどうかたしかではないが、やっているといううわさがある者。第三に、やってみたという志願者。
 対象が決定したので、つぎは方法であった。早急に対象となる女性のリストを作って、本人に交渉する。ある程度の強制はやむをえないだろうということだった。-略-」

そして、承諾書……。下「」引用。

「副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫の物資を用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まって来る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。
 そこまで準備が考えられて、承諾書までとる話にはわたしも驚いた。副官は法科でもでているのか、と思われた。
 こんな小さな島に、これだけの銃をもった日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを自由意志で拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であっただろうが、そんなことに気づいていなかった。
 だが侵略者というものは、その占領地の住民に非常に親切で、最大限の善政をやってやっている、といううぬぼれた大きな錯覚に自分勝手にひたっている場合が多いものだ。わたしは、それすらも気づいていなかった。」

そして、戦後に聞いたという。下「」引用。

「民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。
「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいるの住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。
 わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。」

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敗戦後、裁判……判決。下「」引用。

「「禾晴道 重労働三○年、吉崎清里 重労働二五年、以上が判決です」。
 わたしは目の前がくらくらとした。うれしかったのだ、死刑でなかったことが。-略-一六四六年(昭和二一)年六月一五日だった。」








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