『原爆被爆体験集 北の被爆者 原爆は人類にとって何であったかー』
白樫久、他/被爆体験を語りつぐ会1982年
これだけ読んでいて、まだ知らなかったことが、やはりあります……。原爆とはこういうものなのです。そして、一つの問題をきちんとみていけば、ほとんどのことが、知らないことが沢山あると思います。でも、知る努力は大変ですネ……。ボクのBlogを読んで下さるのだけでも、大変かと思います。
兵として広島に入った人の記事。下「」引用。
「原爆が落とされて、三日か四日過ぎに、広島の町に入りました。三○名から四○名いたと思いますが夕食が終って外に出て、点呼をとり宇品に集合し、宇品の部隊と合流して「大発」という船に乗って川を登って広島の町に入り、中学校で一晩野宿しました。夜が明けてからトラックに乗せられて、己斐の国民学校に行きました。夜、川を登っていくとき、河原の土手には馬の死体がありました。町は何にもなく、大きい商店の金庫だけが残っていました。
私達が、己斐の国民学校に着いた時には、もう死体は並べられてあり、そこで死体を焼きました。患者はビッシリで「兵隊さん、看護婦さん」と、ワーワー泣いていて、静かになったと思ったら死んでいました。校舎の中は血だらけになっていました。
死体を焼くには、空気が必要なので、グランドにスコップで溝を掘って、丸太を並べ壊れた家の材木を集めて、死体を三~四段に重ねて、メチルアルコールをかけて、一回に、五百から六百人ぐらいの死体を、三日ぐらいかかって焼きました。遺品も取らず、夜に死体を焼くのに火の手を上げてはいけないと言われ、熱い日中に焼きました。やけどには、死体の灰がいいからともっていく人もいました。島根県からも警防団がトラックに乗って、手伝いに来ていました。
私たちは、放射能のことは何も知らないから、防火用水の水を飲んだりしていました。
四、五日たって、中隊に帰ると、からだ中が臭い臭いと言われました。うちの中隊にはす衛生兵がいたので、薬は、ほう酸軟膏を塗っていました。多くの罹災者の世話には、軍属関係の奥さんたちが来ていたみたいです。」
北海道へ引っ越しされた女性の記事もありました。下「」引用。
「北見地方に来たこと
その後、主人の帰国で家族が揃い、主人の就職も定まったが、新規一転して、再出発するつもりで東藻琴村に入植した。一年後、実幌町に子供と共にに転住し、私は、教職に就いた。
この地方の温かい人情と美しい風土は、三五年の歳月を知らぬ間に経させていた。多くの先輩、友人、教え子に支えられながら、今では、道産子みたいな顔をして過ごしている。私には、第二の故郷である。」
NHKの免許があったという。下「」引用。
「私は、幸いなことに、ラジオの修理などのNHKの免許をもっていたので、通信機材などの修理をし、戦地に行きませんでした。同僚で戦地に行ったのでは、まず三分の二は帰って来ず、途中で戦死しています。」
こんな記事がありました。下「」引用。
「やけどの薬がないので、バターを塗っていた」
きっと無塩のバターだったんでしょうね……。
ふつうのバターだったら、きっと痛いでしょう……。
妹が「しばらく帰れないよ」といって、長崎にもどったという。そして原爆、さがしに行くことに……。下「」引用。
「証明書がもらえて捜しに行ったのは、もう一二日になっていました。もう一人の妹と二人で捜しに行ったんです。」
そして、妹さんを捜されている時。下「」引用。
「妹が、三菱造船所で働いていたので、捜すために、市街へ入ったけれど、本当にあんなにひどい状態ってないんじゃないかと思います。汚い野も何もかも通り越しちゃっていました。
暑いから水を飲みたいのだけれど、水道には、全部“飲んではいけない”と貼り紙がしてありました。私は、お地蔵さんのある所に、水がチョロチョロ出ていたので、飲まずに口をすすぎました。それが不思議なことに、廻りは、みんなクシャクシャになっているのに、そのお地蔵さんだけ立っているんです。縁起をかつぐ訳じゃないけれど、あれだけは今もって不思議です。」
どこの何というお地蔵さんだったのでしょうね……。
お地蔵さんのファンは、ボクだけではありません……。
地蔵菩薩の部屋
目 次
白樫久、他/被爆体験を語りつぐ会1982年
これだけ読んでいて、まだ知らなかったことが、やはりあります……。原爆とはこういうものなのです。そして、一つの問題をきちんとみていけば、ほとんどのことが、知らないことが沢山あると思います。でも、知る努力は大変ですネ……。ボクのBlogを読んで下さるのだけでも、大変かと思います。
兵として広島に入った人の記事。下「」引用。
「原爆が落とされて、三日か四日過ぎに、広島の町に入りました。三○名から四○名いたと思いますが夕食が終って外に出て、点呼をとり宇品に集合し、宇品の部隊と合流して「大発」という船に乗って川を登って広島の町に入り、中学校で一晩野宿しました。夜が明けてからトラックに乗せられて、己斐の国民学校に行きました。夜、川を登っていくとき、河原の土手には馬の死体がありました。町は何にもなく、大きい商店の金庫だけが残っていました。
私達が、己斐の国民学校に着いた時には、もう死体は並べられてあり、そこで死体を焼きました。患者はビッシリで「兵隊さん、看護婦さん」と、ワーワー泣いていて、静かになったと思ったら死んでいました。校舎の中は血だらけになっていました。
死体を焼くには、空気が必要なので、グランドにスコップで溝を掘って、丸太を並べ壊れた家の材木を集めて、死体を三~四段に重ねて、メチルアルコールをかけて、一回に、五百から六百人ぐらいの死体を、三日ぐらいかかって焼きました。遺品も取らず、夜に死体を焼くのに火の手を上げてはいけないと言われ、熱い日中に焼きました。やけどには、死体の灰がいいからともっていく人もいました。島根県からも警防団がトラックに乗って、手伝いに来ていました。
私たちは、放射能のことは何も知らないから、防火用水の水を飲んだりしていました。
四、五日たって、中隊に帰ると、からだ中が臭い臭いと言われました。うちの中隊にはす衛生兵がいたので、薬は、ほう酸軟膏を塗っていました。多くの罹災者の世話には、軍属関係の奥さんたちが来ていたみたいです。」
北海道へ引っ越しされた女性の記事もありました。下「」引用。
「北見地方に来たこと
その後、主人の帰国で家族が揃い、主人の就職も定まったが、新規一転して、再出発するつもりで東藻琴村に入植した。一年後、実幌町に子供と共にに転住し、私は、教職に就いた。
この地方の温かい人情と美しい風土は、三五年の歳月を知らぬ間に経させていた。多くの先輩、友人、教え子に支えられながら、今では、道産子みたいな顔をして過ごしている。私には、第二の故郷である。」
NHKの免許があったという。下「」引用。
「私は、幸いなことに、ラジオの修理などのNHKの免許をもっていたので、通信機材などの修理をし、戦地に行きませんでした。同僚で戦地に行ったのでは、まず三分の二は帰って来ず、途中で戦死しています。」
こんな記事がありました。下「」引用。
「やけどの薬がないので、バターを塗っていた」
きっと無塩のバターだったんでしょうね……。
ふつうのバターだったら、きっと痛いでしょう……。
妹が「しばらく帰れないよ」といって、長崎にもどったという。そして原爆、さがしに行くことに……。下「」引用。
「証明書がもらえて捜しに行ったのは、もう一二日になっていました。もう一人の妹と二人で捜しに行ったんです。」
そして、妹さんを捜されている時。下「」引用。
「妹が、三菱造船所で働いていたので、捜すために、市街へ入ったけれど、本当にあんなにひどい状態ってないんじゃないかと思います。汚い野も何もかも通り越しちゃっていました。
暑いから水を飲みたいのだけれど、水道には、全部“飲んではいけない”と貼り紙がしてありました。私は、お地蔵さんのある所に、水がチョロチョロ出ていたので、飲まずに口をすすぎました。それが不思議なことに、廻りは、みんなクシャクシャになっているのに、そのお地蔵さんだけ立っているんです。縁起をかつぐ訳じゃないけれど、あれだけは今もって不思議です。」
どこの何というお地蔵さんだったのでしょうね……。
お地蔵さんのファンは、ボクだけではありません……。
地蔵菩薩の部屋
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