『坂本龍馬の後裔たち』
中野文枝・著/新人物往来社1986年
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「-略-龍馬に命を救われ、のちに
ニコライ堂の創建者となった沢辺琢馬。
二代目・同志社学長から
アメリカの大農場主となった西原清東。
北海道開拓の不屈の先駆者・坂本直寛。
かれらの生涯こそは坂本龍馬の血と精神の
苦しくも輝かしい軌跡にほかならなかった。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/23/b51ca6dba9fc9059ecd61ba932bac14b.jpg)
息子も亡くしていた姉・乙女……。下「」引用。
「龍馬さんが暗殺されました時は、乙女姉さんは離婚して戻っていましたが、岡上家で残して来た一人息子が先日死んだばかりです。龍馬さんと息子の赦太郎さんを失って、まっこと両手をもがれたようなもんで気の毒です」」
龍馬暗殺の報告を聞いた時。下「」引用。
「「龍馬暗殺」の報に一族は声を呑んで言葉も出なかったが、一番嘆くであろうと思った乙女さんが、案外平然としていたことが印象に残っている。」
キリスト教禁止だったが……。下「」引用。
「土佐にも「キリスト教禁止」の立札が立っていた。この母の脅えた目になんと答えようか。琢馬は三年前、明治元年に洗礼を受けて、母のいう“バテレン”であった。」
キリシタン禁止解除。下「」引用。
「キリシタン禁止解除とともに、多くの信者がいっせいに受洗を申し込んできている。関東、東北、北陸の信者たちが、はるばる箱館にまで行ってニコライ神父の儀式を受けなければならない。その不便さをおもい、司祭資格者の必要性を知りながらも、ニコライ神父も、ただ当惑するばかりであった。-略-」
龍馬の舎弟といわれた陸奥宗光。
松方内閣の弾圧。下「」引用。
「土佐の自由党は、ここに至って、
「龍馬先生に申し訳ないぞ。こじゃんと(「徹底的」の方言)闘え」
とばかりに受けて立ち、土佐の山間に血潮の雨が降る事件が続出した。死者十名、負傷者六十六名、破壊された家屋は九十戸という全国で最高の被害を出した。それをみても松方内閣が政敵として、土佐に加えた弾圧は徹底したもので、政治闘争にかけては、その力量を謳(うた)われたさすがの坂本直寛も到底、力の及ぶところではなかった。」
「風雲急を告げる北海道」 下「」引用。
「坂本直寛は同二十七年(一八九四)、浪花伝道義会の嘱託となって和歌山、三重、愛知、岐阜と、近畿地方まで巡回伝道に乗り出し、このころ、「関西に、この人あり」といわれるまでに法曹界に勇名を馳せた西原清東と再会した。
当時、北海道への移民募集が、日本全国に広がっていて、このことは、すでに片岡健吉を中心に、立志社の同志のなかでも一大関心事となっていた。山間僻地(へきち)の土佐で、次男、三男の働き場所を考えてやらなければならないのは政治家の使命であった。この北海道開拓については、坂本龍馬も、すでに「蝦夷地経営意見書」を書き、日本領土確保のために高松太郎(坂本直)を北海道に送って、その実情を具(つぶさ)に調査していた。
幕末のロシア帝国は、ピョートル大帝(一八七二-一七二五)以来の、侵略主義の国是を提げて蝦夷地を虎視眈々と狙っていた。」
坂本直道(直寛の子)。下「」引用。
「長男・直道は、明治天皇の勅命によって残された「坂本龍馬」の三世として龍馬の戸籍にその名を残した。
大正九年(一九二○)、東京大学政治学科卒業、満州鉄道に入社、昭和四年にフランスに出張して、満鉄欧州事務所長・日仏経済懇談会理事に就いた。昭和二十七年三月、土佐に帰った時、「高知新聞」は、パリ仕込みの“龍馬先生”と大きく報道した。-略-」
中島信行(龍馬の薫陶をうけた海援隊の一員)。下「」引用。
「明治二十三年(一八九○)、権力の一枚岩のような存在であった「元老院」が廃止され、板垣退助が自由党を結成した。その時、その副総理となった中島信行が、第一回帝国議会衆議院選挙に当選して、初代衆議院議長になった。-略-」
跡継ぎとなった坂本直は爵位を辞退した。
伯爵・板垣退助。下「」引用。
「“板垣が、今日あるのは、偏えに坂本先生のお陰でございます”
と、最敬礼されました。」
本山白雲が龍馬像をつくる。
西郷が龍馬に贈った椰子実水呑。
才谷梅太郎の「梅太郎」は、勝海舟の子どもの名からとったという。
司馬遼太郎……。下「」引用。
「そのなかの茂の手紙に、
明治百年に因んで“龍馬がゆく”を新聞紙上に連載していた司馬遼太郎氏が、龍馬脱藩に、刀を渡したのは乙女であると書かれていますが、“その真実は、乙女でありません。仲姉の栄であります”と私、無名で手紙を出しました。
ということが書いてあった。」
もくじ
NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』では、栄が刀を渡したことになっていたという。
さて、今回の大河ドラマでは……。
もくじ
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目次
もくじ
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中野文枝・著/新人物往来社1986年
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「-略-龍馬に命を救われ、のちに
ニコライ堂の創建者となった沢辺琢馬。
二代目・同志社学長から
アメリカの大農場主となった西原清東。
北海道開拓の不屈の先駆者・坂本直寛。
かれらの生涯こそは坂本龍馬の血と精神の
苦しくも輝かしい軌跡にほかならなかった。」
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息子も亡くしていた姉・乙女……。下「」引用。
「龍馬さんが暗殺されました時は、乙女姉さんは離婚して戻っていましたが、岡上家で残して来た一人息子が先日死んだばかりです。龍馬さんと息子の赦太郎さんを失って、まっこと両手をもがれたようなもんで気の毒です」」
龍馬暗殺の報告を聞いた時。下「」引用。
「「龍馬暗殺」の報に一族は声を呑んで言葉も出なかったが、一番嘆くであろうと思った乙女さんが、案外平然としていたことが印象に残っている。」
キリスト教禁止だったが……。下「」引用。
「土佐にも「キリスト教禁止」の立札が立っていた。この母の脅えた目になんと答えようか。琢馬は三年前、明治元年に洗礼を受けて、母のいう“バテレン”であった。」
キリシタン禁止解除。下「」引用。
「キリシタン禁止解除とともに、多くの信者がいっせいに受洗を申し込んできている。関東、東北、北陸の信者たちが、はるばる箱館にまで行ってニコライ神父の儀式を受けなければならない。その不便さをおもい、司祭資格者の必要性を知りながらも、ニコライ神父も、ただ当惑するばかりであった。-略-」
龍馬の舎弟といわれた陸奥宗光。
松方内閣の弾圧。下「」引用。
「土佐の自由党は、ここに至って、
「龍馬先生に申し訳ないぞ。こじゃんと(「徹底的」の方言)闘え」
とばかりに受けて立ち、土佐の山間に血潮の雨が降る事件が続出した。死者十名、負傷者六十六名、破壊された家屋は九十戸という全国で最高の被害を出した。それをみても松方内閣が政敵として、土佐に加えた弾圧は徹底したもので、政治闘争にかけては、その力量を謳(うた)われたさすがの坂本直寛も到底、力の及ぶところではなかった。」
「風雲急を告げる北海道」 下「」引用。
「坂本直寛は同二十七年(一八九四)、浪花伝道義会の嘱託となって和歌山、三重、愛知、岐阜と、近畿地方まで巡回伝道に乗り出し、このころ、「関西に、この人あり」といわれるまでに法曹界に勇名を馳せた西原清東と再会した。
当時、北海道への移民募集が、日本全国に広がっていて、このことは、すでに片岡健吉を中心に、立志社の同志のなかでも一大関心事となっていた。山間僻地(へきち)の土佐で、次男、三男の働き場所を考えてやらなければならないのは政治家の使命であった。この北海道開拓については、坂本龍馬も、すでに「蝦夷地経営意見書」を書き、日本領土確保のために高松太郎(坂本直)を北海道に送って、その実情を具(つぶさ)に調査していた。
幕末のロシア帝国は、ピョートル大帝(一八七二-一七二五)以来の、侵略主義の国是を提げて蝦夷地を虎視眈々と狙っていた。」
坂本直道(直寛の子)。下「」引用。
「長男・直道は、明治天皇の勅命によって残された「坂本龍馬」の三世として龍馬の戸籍にその名を残した。
大正九年(一九二○)、東京大学政治学科卒業、満州鉄道に入社、昭和四年にフランスに出張して、満鉄欧州事務所長・日仏経済懇談会理事に就いた。昭和二十七年三月、土佐に帰った時、「高知新聞」は、パリ仕込みの“龍馬先生”と大きく報道した。-略-」
中島信行(龍馬の薫陶をうけた海援隊の一員)。下「」引用。
「明治二十三年(一八九○)、権力の一枚岩のような存在であった「元老院」が廃止され、板垣退助が自由党を結成した。その時、その副総理となった中島信行が、第一回帝国議会衆議院選挙に当選して、初代衆議院議長になった。-略-」
跡継ぎとなった坂本直は爵位を辞退した。
伯爵・板垣退助。下「」引用。
「“板垣が、今日あるのは、偏えに坂本先生のお陰でございます”
と、最敬礼されました。」
本山白雲が龍馬像をつくる。
西郷が龍馬に贈った椰子実水呑。
才谷梅太郎の「梅太郎」は、勝海舟の子どもの名からとったという。
司馬遼太郎……。下「」引用。
「そのなかの茂の手紙に、
明治百年に因んで“龍馬がゆく”を新聞紙上に連載していた司馬遼太郎氏が、龍馬脱藩に、刀を渡したのは乙女であると書かれていますが、“その真実は、乙女でありません。仲姉の栄であります”と私、無名で手紙を出しました。
ということが書いてあった。」
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NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』では、栄が刀を渡したことになっていたという。
さて、今回の大河ドラマでは……。
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