『新教新書207 ひろしまを考える旅』
日本YWCA「ひろしまを考える旅」委員会・編/
新教出版社1983年
YWCAも、ボクの若いころには、よく活動されていた団体でもあったように思えます……。
広島だけでなく、長崎の旅もされたようです。
原爆を落とされても友人 芝間タヅ先生(元広島女学院)。下「」引用。
「一人の外国からの参加者が、先生は原爆を落としたアメリカをどう思ってらっしゃったか、と質問しました。先生は、若い時にアメリカに留学し、YWCAの人と厚い友情に結ばれたことをお話しになり、「原爆が落とされ、戦争が終わった時に私が知ったことは、あの長い戦争の間中、アメリカの友人は私を覚え祈っていてくれたということでした。広島に原爆が落とされたことについては、大変心を痛め、私を案じていたそうです。私はアメリカを思う時には、いつもこの友情、この愛を思うのです」と結ばれました。」
そもそも投下されたのはアメリカという国であって、アメリカ人全員が投下したわけではありませんね。
「マンハッタン計画」の研究者のほとんども反対されていたようです。
--人道をとる人なら、当然反対されたことでしょう。
しかし、それをそうと思わせなかったのが原爆神話ですね。
index
いろいろなコースがあったようです。下「」引用。
「今日、私はフィールワークのDコースに参加し、原医所、放影研を見学し、映画、スライドで放射能の恐ろしさを思い知らされました。」
日本の法律は奇々怪々ですね。下「」引用。
「一九六八年、国はヒロシ君たちを「近距離早期胎内被爆症症候群」という病名で認定患者に認めました。「胎内被爆小頭症」とはっきり名づけることを避けたのです。原爆医療法で救済する対象は、治療によって今後回復する見込みのある症状に限られています。ヒロシ君のように、医学の力ではもはや回復できない被爆者は、現行の法律では救えないのです。そこで、苦しまぎれの病名を考えだしたのです。」
罪を感じたから、施設をつくられたようです。下「」引用。
「ほんらい教会は、神の言葉に立って平和を創り出すために働くべきものです。しかし、現実には、過去の戦争において、教会は戦争に協力、加担してしまいました。この罪を深く悔い、神の許しを求めたものが、一九六七年に発表された「戦争責任告白」です。その告白を具体的に表わすための仕事の一つが清鈴園建設でした。原爆で一生を狂わされ苦しんでいる原爆孤老が、安心して暮らせる施設が必要だと考えたのです。」
『「二重差別に苦しむ人びと」--被差別にある病院を訪問して』という文章がありました。
バーバラ・レイノルズさんのことも書かれてありました。下「」引用。
「一九六九年、広島のためにもっと働くために帰国されたバーバラさんは、クエーカー系のウィルミントン大学に「ヒロシマ・ナガサキ記念文庫」を広島の応援を得て設立、広島に関する平和図書を集める運動でバーバラさんの主唱により「ヒロシマ会議」が開かれ、アメリカの学者と日本の教育者が多数参加しました。渡辺峯さん他二人がYWCAからも参加しました。」
「大田洋子の被爆文学地図(『屍の町』を中心に)を歩く」というタイトルもありました。下「」引用。
「広島駅からバスで一五分位、逓信病院前を通過して下車、碇(いかり)神社と隣り合わせの宝勝院に向いました。栗原さんは私たちの説明の準備のため、下見をかねて何度もここに足を運ばれた末、川田(大田洋子の実弟)名義で家を借りていたために、近所の方々もわからなかったという、大田洋子と妹、母らの住んでいた家を見つけたそうです。」
栗原さんとは栗原貞子のことです。
峠三吉はクリスチャンだったようです。
「7 核と人間--高木仁三郎先生を囲む勉強会の記録」というタイトルの文章もありました。
大牟田稔(中国新聞社論説副主幹)は、本当に見るということを書かれていました。下「」引用。
「原爆資料館でただ「こわい」とだけ感じるのは“ひろしま”を見たのではなく、通り過ぎたのです。本当に“ひろしま”を見るということは、広島になぜ原爆が投下されたのか、原爆は人間をどう破壊したか、原爆を生み出した文明とは何か、原爆を人間のうえに炸裂させた国家・政治・人間の心のあり方とはいったい何か--そこまで考えつづけることです。」
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日本YWCA「ひろしまを考える旅」委員会・編/
新教出版社1983年
YWCAも、ボクの若いころには、よく活動されていた団体でもあったように思えます……。
広島だけでなく、長崎の旅もされたようです。
原爆を落とされても友人 芝間タヅ先生(元広島女学院)。下「」引用。
「一人の外国からの参加者が、先生は原爆を落としたアメリカをどう思ってらっしゃったか、と質問しました。先生は、若い時にアメリカに留学し、YWCAの人と厚い友情に結ばれたことをお話しになり、「原爆が落とされ、戦争が終わった時に私が知ったことは、あの長い戦争の間中、アメリカの友人は私を覚え祈っていてくれたということでした。広島に原爆が落とされたことについては、大変心を痛め、私を案じていたそうです。私はアメリカを思う時には、いつもこの友情、この愛を思うのです」と結ばれました。」
そもそも投下されたのはアメリカという国であって、アメリカ人全員が投下したわけではありませんね。
「マンハッタン計画」の研究者のほとんども反対されていたようです。
--人道をとる人なら、当然反対されたことでしょう。
しかし、それをそうと思わせなかったのが原爆神話ですね。
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いろいろなコースがあったようです。下「」引用。
「今日、私はフィールワークのDコースに参加し、原医所、放影研を見学し、映画、スライドで放射能の恐ろしさを思い知らされました。」
日本の法律は奇々怪々ですね。下「」引用。
「一九六八年、国はヒロシ君たちを「近距離早期胎内被爆症症候群」という病名で認定患者に認めました。「胎内被爆小頭症」とはっきり名づけることを避けたのです。原爆医療法で救済する対象は、治療によって今後回復する見込みのある症状に限られています。ヒロシ君のように、医学の力ではもはや回復できない被爆者は、現行の法律では救えないのです。そこで、苦しまぎれの病名を考えだしたのです。」
罪を感じたから、施設をつくられたようです。下「」引用。
「ほんらい教会は、神の言葉に立って平和を創り出すために働くべきものです。しかし、現実には、過去の戦争において、教会は戦争に協力、加担してしまいました。この罪を深く悔い、神の許しを求めたものが、一九六七年に発表された「戦争責任告白」です。その告白を具体的に表わすための仕事の一つが清鈴園建設でした。原爆で一生を狂わされ苦しんでいる原爆孤老が、安心して暮らせる施設が必要だと考えたのです。」
『「二重差別に苦しむ人びと」--被差別にある病院を訪問して』という文章がありました。
バーバラ・レイノルズさんのことも書かれてありました。下「」引用。
「一九六九年、広島のためにもっと働くために帰国されたバーバラさんは、クエーカー系のウィルミントン大学に「ヒロシマ・ナガサキ記念文庫」を広島の応援を得て設立、広島に関する平和図書を集める運動でバーバラさんの主唱により「ヒロシマ会議」が開かれ、アメリカの学者と日本の教育者が多数参加しました。渡辺峯さん他二人がYWCAからも参加しました。」
「大田洋子の被爆文学地図(『屍の町』を中心に)を歩く」というタイトルもありました。下「」引用。
「広島駅からバスで一五分位、逓信病院前を通過して下車、碇(いかり)神社と隣り合わせの宝勝院に向いました。栗原さんは私たちの説明の準備のため、下見をかねて何度もここに足を運ばれた末、川田(大田洋子の実弟)名義で家を借りていたために、近所の方々もわからなかったという、大田洋子と妹、母らの住んでいた家を見つけたそうです。」
栗原さんとは栗原貞子のことです。
峠三吉はクリスチャンだったようです。
「7 核と人間--高木仁三郎先生を囲む勉強会の記録」というタイトルの文章もありました。
大牟田稔(中国新聞社論説副主幹)は、本当に見るということを書かれていました。下「」引用。
「原爆資料館でただ「こわい」とだけ感じるのは“ひろしま”を見たのではなく、通り過ぎたのです。本当に“ひろしま”を見るということは、広島になぜ原爆が投下されたのか、原爆は人間をどう破壊したか、原爆を生み出した文明とは何か、原爆を人間のうえに炸裂させた国家・政治・人間の心のあり方とはいったい何か--そこまで考えつづけることです。」
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