磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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おはなし歴史風土記 7 福島県

2011年05月24日 | 読書日記など
『おはなし歴史風土記 7 福島県』
   歴史教育者協議会・編/岩崎書店1984年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「-略-私も、子どものころ、歴史好きで、毎日、新聞の夕刊に出る講談をよみあさりました。庶民的でたのしいものではあったけれど、地域に根ざした、国民の苦労と成功をえがいたものではなかった。日本の北から南まで、美しい風土のなかで生きてきた日本人の、人類のなかの貴重な歴史として勉強することは大切です。」



佐藤基治=信夫の庄司。下「」引用。

「基治はその藤原氏のもとで、信夫郡の郡司と信夫の庄の庄司をつとめ、信夫の庄司とよばれてきました。基治のすむ飯坂の里に温泉がわいていることから、基治は「湯の庄司」とよばれることもありました。」

いいがかりをつけようとする頼朝。下「」引用。

「義経をとらえよといったのに、ころすとはなにごとだ」というのが、頼朝のいいぶんです。頼朝は、こんないいがかりをつけてまで、陸奥の国を源氏のものにしようとしていたのです。」

自由民権運動。下「」引用。

「一八八二年(明治一五年七月のはじめ、福島県耶麻郡喜多方町(いまの喜多方市)にある自由党会津部の本部では、五、六人の自由党員が顔をまっかにしてはなしこんでいました。
 そのころの日本では、「国民の自由と権利をまもるために、憲法をつくり、国会をひらけ。」という自由民権運動がすすんでいました。この運動のせんとうに立ったのが自由党です。自由党員の多い福島県には、自由党会津部と自由党福島部とがありました。-略-」

「満州の開拓団」 下「」引用。

「留松が妻のタケをつれて満州(いまの中国東北地方)へわたったのは、一九四○年(昭和一五年)四月、日中戦争のさなかのことでした。
 そのころ満州を植民地のようにしていた日本の政府は、日本の農民の開拓団をつぎつぎに満州へおくりこんでいました。
「なあ、松つぁん。満州へいけば、一○○○円のお金と一○ヘクタールの土地がもらえる。くらしはぐんとよくなるぞ。それになにより、お国のためになるからな。」
 信夫村の役場の人は、こういって留松に満州いきをすすめました。」

戦死したり、自殺したり……。下「」引用。

「一九四五年(昭和二○年)八月、ソ連軍が満州へせめこんでくると、満州にいた日本軍は総くずれとなり、さきをあらそって南のほうへにげました。あとには、家族をかかえた開拓団がとりのこされました。開拓団のなかからは、戦死したり、自殺したり、行方不明になったりするものがたくさん出ました。-略-」

index

ダム工事阻止しようとしたが……。下「」引用。

田子倉ダムができあがったのは、それから五年のちの一九六一年(昭和三六年)のことでした。ここでおこされた電気は、遠く東京や横浜のほうへおくられました。-略-
 --ここへきても、おれの見なれたものはあの山やまだけだ。むらはすっかり湖のそこになっている。……おれの家のあったあたりは、どこなんだろう。--」










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